「さおか」と入力しても狭岡は出てこない。
今年になって初めて知った神社です。
たぶん初詣にサムハラ神社参拝した日記
2016-01-03 不思議の4文字 サムハラ
ココでいただいた吉田さんからのコメントの流れの中で知ったような。
探しても見つからず、コメント内容を再確認できませんでした。
もしこの記事ご覧になられたら、コミットしていただくとうれしいです。
狭岡神社を知ったその時、たいそう興味持ち調べました。
必ず近いうち、できたら春に行こうと思ってました。
当時は、佐保姫が春の女神とは知らず、直感です。
そしたらグッドタイミングで、桜の季節にJR大和路線乗ると車窓からの景色最高やねんという人がいました。
佐保川あたりの桜見ウォークしようとすぐに話がまとまったのです。
私は、桜も見たかったけど、この狭岡神社に行きたかったので。
実際、鳥居前に立って、祭神々のお名前みても、しらんなぁ~です。
一人で来てたらちょっと参道進むのが怖い感じ。
石段上がりだしてすぐに左手に開けたところがありました。
狭穂姫伝承地として、鏡池や石碑がありました。
法蓮佐保山の山腹ですが、かなり標高出てくるので見晴らしがいいです。
また続きの石段参道を上がると拝殿と本殿がありました。
この系図を見て思い出したことは、
吉田さんのコメントにあった
『大年神と天知迦流美豆比売の間の子』
狭岡由緒記によれば
「本狭岡神社は霊亀2年(715)藤原不比等が国家鎮護・藤原氏繁栄のため、勅許により己の邸宅佐保殿の丘上に天神八座を奉祀して崇拝した。
これが佐保丘天神・狭穂岡天神・狭加岡天神となって、今の狭岡神社になった。
次いで、藤原不比等は河内の国枚岡より藤原氏の祖神である春日大明神を、大和国奈良の御蓋山へ移され、斉祀した。これが今の春日神社である。
それ以来、国政の大事や氏神春日詣りには、藤原一門がこの佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎して、日の出を待って国政に掌り、春日社詣をした。」と古事に出ている。
ほかに目に留まったものは
平城京の一条南大路が現在の一条通ですが、東の突き当りが東大寺の転害門で、ここから佐保路が始まるようです。
ここを起点として西に行けば、聖武天皇陵、興福院、狭岡神社、不退寺へと続きます。
標高100mほどの佐保山はなだらかな丘陵で、裾野の南側をながれるのが佐保川。
このあたりは今でも風光明媚でいいとこですが、奈良時代は貴族の邸宅地となる高級住宅街だったようです。
大伴氏邸宅、長屋王の別宅「作宝楼」、石上氏邸宅「芸亭」とか。
そして藤原氏邸宅がこのあたりにあったのですね。
「国政の大事や氏神春日詣りには、藤原一門がこの佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎して、日の出を待って国政に掌り、春日社詣をした」
何かスゴイとこみたいです。
不退寺へ向けて歩き出した途中で撮影。
奈良の町がよく見える見晴らしのいいとこでした。
深~い闇か封印とかがあるのかもしれないけど、よくわからなかった。