カフェレストランくるみの木の時間待ちで足を伸ばした。
不退寺
なんとけったいな名前のお寺なんでしょう。
開基が在原業平だったか紀貫之だったかさえもおぼろげな記憶。
最初は拝観料節約して南大門から覗くだけにしようかと思ってた。
それぐらいこじんまりした小さなお寺です。
同行の友人がせっかく来たから中に入らしてもらいましょと言うのに押し切られ、・・・
まず最初に見た石棺は、鎌を研いだあとが残ってる。
お寺に石棺あるのも珍しいけど、生活に役立ててるなんて、なんともほほえましいというか。
本堂で住職さんがお待ちで説明してくださるという。
残念ながら、中は撮影禁止。
格子は業平格子と名づけられているらしい、シンプルで粋です。
杮経といって、木簡にお経を書いて奉納したものが展示してありました。
なんで柿の木なんですかと質問して、
よく見てくださいよ、字画が違うでしょうとたしなめられました。
柿(かき)ではなくて、杮(こけら)はヒノキだそう。
聖観音像は、すぐ目の前で拝謁できました。
桂の木の一木造ですって。
画像もらってきました。
かつては「住持一世に一度開帳」と記録があるほどの秘仏で、そのためこの時代のものとしては彩色がみごとに残ります。
背丈190cm、頭の両側で結ばれたリボンが肩にかかって膝まで垂れています。
豊満な木造の仏像は珍しいそうです。
在原業平が伊勢神宮参詣の折、天照大神より神勅を受け自ら聖観音像を刻んだという説。
あるいは美男だった彼をモデルにしたもの、という説などなど。
左には阿保親王像が立派で、小野たかむら像に似た印象。
不退寺が阿保親王の菩提を弔うための寺院でした。
右には伊勢大神宮が祀られ、小浜のお水送りの神宮寺みたいでした。
靴を履くために腰かけた本堂から境内と入口の南大門を眺めていると、なんか突然懐かしくなりました。
なんかここで暮らしたいと思えてきたのです。
いや暮らしてたことがあったような錯覚を覚える。
祖父平城天皇が薬子の変のあと剃髪したのち隠棲した「萱の御所」であったと言われ、平城天皇の皇子阿保親王やその息子である業平もこの地に住んでいたと言われている。
仁明天皇の勅願を受け在原業平が開基した不退寺は、業平寺とも呼ばれる。
血筋からすれば非常に高貴な身分だった在原業平(825~880)
父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王。
父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。
薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは 小倉百人一首
業平は、平安初期の歌人、六歌仙・三十六歌仙の一人
歌風は情熱的で古今集仮名序に「心あまりて言葉たらず」と評された。
世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし 古今和歌集
この歌も有名ですね。
伊勢物語は、古くから在原業平の物語であるとみなされてきました。
色好みの典型として伝説化され、美女小野小町に対する美男の代表として後世の演劇・文芸類でもてはやされました。
しかし、自分が天皇になる目がないことはわかっていた。
こんなところから、不退寺 と名づけたのでしょうか。
正式名称 金龍山不退転法輪寺
伊勢物語の中で語られる『むかしをとこ』
栄華も権威も無いかわりに、平安と自由を謳歌している。
政治の中枢に入らずに済んだことを、逆に楽しんでいるかのよう。
決して不遇な人物像では無いと思えてきます。
詳しくは、聖観音画像も頂戴したブログ→こちら
拝観してよかった不退寺 でした