西国33箇所3番札所の粉河寺の中門です。
紀州徳川十代藩主が書いたという中門の扁額に「風猛山」
ふうもうざん かざらぎさん とも読むようです。
自分の車で行くにあたりアクセスとか駐車場とか下調べしてから行きました。
大門の右横から境内中に入ることができて、雨で超すいてたから下の地図の現在地と書かれた場所に駐車しました。
大門は三間楼門で、その規模は和歌山県では高野山、根来寺に次ぐ大きさといわれています。
雨が降ってて傘を差していたため撮影しそびれました。
大門入ってすぐ右手にみかんなどを販売している茶店がありました。
こちらの駐車場はゲートが無く駐車場管理をこの店に任せているようです。
駐車場代の徴収のため行きも帰りも声掛けありました。
粉河寺は本堂を内観しなければ拝観料が不要です。
立派な広い境内は掃除が行き届き維持管理も大変だと思うのに拝観料を払わなくともお参りできます。
しかし駐車場代は500円で、その徴収声掛けがちょっと嫌味。
これなら紀三井寺のように、駐車場代300円+拝観料200円のほうがずっと気持ちよく利用できます。
ホンマに想像以上に広いお寺であったのが驚きでした。
細い川に沿って桜がまだこの時はつぼみでした。
左手に多くのお堂が立ち並んでいます。
紀伊国那賀郡粉河の、粉を流したような白い水の流れる川 ってこの川のことなんでしょうか。
童男堂の格子越しにのぞいてみると、「童男大士」の石像とその傍には「出現池」と名付けられた池があります。
童男大士はこの池より白馬に乗って柳の枝を手に持ち現れ、千手千眼観世音の化身といわれています。
粉河寺縁起絵巻:京都国立博物館に寄託
作者不詳で、成立は平安時代後期(12世紀)
絵巻物の代表的作品の一つに数えられ国宝に指定されています→こちら
粉河寺のウェブサイトによれば
紙本著色・幅約30cm長さ役20mで、詞書と絵画によって構成され、霊験物語二話を一巻に描いている。
前半は、宝亀元年(七七〇)千手観音の化身童男行者の加護を得て、大伴孔子古が草堂を結び、千手観音像を安置して粉河寺が開創された経緯と千手観音出現の奇蹟)が、
又後半には、河内の国(現東大阪市)の長者の娘の病気が、伴の童男行者の祈祷によって平癒した経緯(千手観音の霊験)が描かれている。
因みに東大阪市足代の名門、塩川家がそのご子孫である。
紹介文の最後の名門塩川家は、元衆議院議員の塩川正十郎さんちのこと。
ホンマかなと思って調べてみると、
東大阪の布施商店街周辺の地図案内でも、
「塩川家邸内の柳井は紀州粉河寺の観音が童男に化身し掘った井戸と伝えられています。」
洞察日本史のページでは
「粉河寺仁王門の前の巨額寄進を記念する古い石碑に、寄進者として名を刻まれた塩川正三が後に布施市長に就いたのはまさに名実相応じた奇瑞であるが、塩川佐大夫の子孫が一三〇〇年経っても仏恩を忘れていないことを示している。」
こちらではもっと興味深いことに、らい病の医療施設として、この粉河に白水を開設して千手観音を祀っていた、等々。
詳しくは→こちら
中門に着くまでに太子堂がありその前に不思議な剪定をしたウバメガシがありました。
いよいよ中門到着。
西国札所のなかでもこれほど立派な中門はそうそうないでしょう。
階段の上から来た参道を撮影。
手水舎も蓮の花で珍しかったのに画像なし。
中門くぐると若山牧水歌碑や松尾芭蕉句碑があり、
参道を左に折れると、桃山時代の枯山水の石庭上に本堂。
枯山水の粉河寺庭園は紀州産の名石を組み合わせモダンアートな斬新さがあります。
本堂後ろから桜越しに鐘楼と一緒に撮りました。
西国三十三所の本堂の中で最大らしいです。
薬師堂の下に大きなクスノキが堂々と枝を広げています。
猟師の踞木 紀伊国の猟師・大伴孔子古がこの木の上で獲物を待ち伏せしていたとされます。
丈六堂の阿弥陀仏です。
粉河寺の威風堂々ぶりは以下サイトでなるほど~と思えたのだった。
塩爺のことでリンク貼った洞察日本史のページの中のひとつです。
熊野国造和田氏と粉河井口氏の職能
「熊野和田氏の族種的特技であった測量と水路設計を引継いだのは、紀ノ川流域に蟠踞した井口氏で、これが紀伊国那賀郡粉河荘を本拠にした」