1797年(寛政九年)の河繪圖の一部です。
江戸時代の淀川の鳥飼大橋あたりが描かれています。
淀川は大きな河川なので、なんとなくまっすぐ滔々と流れてるような気がしてた。
今まで何度も淀川河川敷でバーベキューしたり子供駅伝とかで利用しました。
その都度ある一部の河川敷利用で、堤防を長い距離歩いたことなかった。
ところが昨日歩いた豊里大橋と鳥飼大橋の間で、
カッキ〜ンと90度近く曲がってるって、初めて気づいた。
知らんかったのは私だけか…。
この記事、カテゴリーは古代史ミステリーに入れました。
ミステリーではなくて事実なんでしょうが、
現代人は知らない人が多いかもしれないと思ってのことです。
古代の大阪平野は現在からは想像もつきません。
なんで大阪より内陸部の奈良に都ができたのか子供の頃より不思議だった。
この謎が古代の地形図を見て納得したので、
このブログでも何度かこうした地図はご紹介してきました。
そして今回はさらに淀川の流れがどのように変化したかを知り愕然。
大阪府の、治水の歩みというページより古地図もらってきました。
古代
江戸時代
現在
淀川と国道1号線と京阪鉄道は守口近辺では平行して走っています。
R1と京阪の中間に文禄堤があり、これは豊臣秀吉が整備した京街道です。
淀川の堤防だったといわれ、守口市役所すぐ近くには船着場が残っています。
土居にある守居神社は、淀川流域の守護神として此の地に土居を築き社殿を構えてお祀りされたのが創り
1544年(天文十三年)7月9日に前代未聞の大洪水があり、大門鳥居流失し社殿失損宝殿流損
そして同じく京阪電車の土居駅の南側にある高瀬神社は
古くより交通の要所で淀川舟運の拠点として開けてきたと由緒に書かれてありました。
淀川はどのように流れていたんだろうとずっと気になってました。
国道1号線よりも現在、淀川に近い下島や八雲地区ってかつては川や中洲だったんだろうか?
しかし淀川左岸の八雲地区には縄文時代から近世にいたる大規模遺跡があり多数の遺物が出土している。
いったいどうなってるのか調べてみようと、
思い立ったが吉日。
江戸時代の地図の守口→七番、約2.5kmを歩いてきました。
ネット検索で、邪馬台国と大和朝廷を推理するというサイトがヒットしました。
「茨田の堤」というタイトルで章立てされてますので詳しくは→こちら
流離の神社、行基の堀川、仁徳朝の悲願
地形図から読み解く、水利事業から見えてくる歴史。
学校では教えてくれない大阪の歴史がよくわかりました。
クリックで拡大します。
仁徳天皇時代に河川の大々的な工事がなされ、
その形跡が「難波の堀江」や、「茨田の堤」など遺されています。
江戸時代に大和川の付け替え工事がなされ洪水がなくなったのは、河村瑞賢のおかげとか、
かすかに日本史で習ったような気がします。
この5年間、日本の古代史に興味をもつようになり、
四天王寺さん近くの谷町筋で凹んだ部分があるのは、
和気清麻呂が上町台地に掘り川を作ろうと掘削失敗した跡だと知り、へぇ〜!!
和気清麻呂は淀川の流れを変えるためにもいろいろ工夫してたんですね。
実はその前に、行基が淀川の水利事業で努力したことを知りもっと驚きました。
「行基の堀川」よりそのまま引用させてもらいます。
「守口市の北部では淀川が大きく湾曲し、淀川水運における難所として知られていました。
淀川流域では、冬はもちろんのこと年間を通じて西風の吹く日が多いような気がします。
淀川をさかのぼる船はこの風を利用しました。
ところが守口の湾曲部では西風が逆風になって、船の進行を妨げました。
特に冬は逆風がきつかったと思います。
そこで、湾曲部の横に、直線的なバイパス堀川を掘りました。
それが大庭の堀川です。
もし大庭の堀川が完成していれば、守口の難所は解消したはずでした。
残念ながら今、大庭に堀川が残っていません。
いかなる事情があったのかはわかりませんが、工事は完成しなかったと思われます。
吹田の堀川は、守口から都島区毛馬に至る川だと思います。
これは今の淀川にほぼ重なります。
ここでは堀川が淀川本流になってそのまま残ったのです。
次田は誤字でしょう。今の吹田市のこととされています。
この堀川によって、南の蒲生方面へ大きく蛇行していた淀川の流れを短く直線化することができました。
さらに、守口から蒲生に至る古い川を埋めれば、淀川と大和川を分離することになったはずです。
おそらく古い川は、この時埋められたのです。」
「行基の堀川には三つの目的がありました。
一つは淀川と大和川を遠ざけることです。
二つ目は淀川の流れを直線的にして、すみやかに海に流すことでした。
さらに、水運の利便性を高めることも考えられていました。
行基のアイデアは、完全には実現しませんでした。
ようやく明治時代になって、オランダ人のヨハネス・デレーケが淀川放水路を作ったときに、そのアイデアが引き継がれ、ほぼ完全に実現しました。
ヨハネス・デレーケは行基のアイデアを全く知らなかったと思いますが、
淀川と人々のかかわりを理解したからこそ、同じ結論を得たのでしょう。」
堺市の百舌鳥八幡にある家原寺は行基(668〜749)菩薩生誕の寺。
智恵の文殊さんを祀られてるので、受験の時はいつもお参りに行った懐かしいお寺です。
さすが知恵の文殊さん、行基さん、すごいわぁ
仁徳天皇(313-399)第16代天皇
行基(668〜749)奈良時代の僧 溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所
和気清麻呂(733〜799)奈良時代末期から平安時代初期の貴族
江戸時代の淀川の鳥飼大橋あたりが描かれています。
淀川は大きな河川なので、なんとなくまっすぐ滔々と流れてるような気がしてた。
今まで何度も淀川河川敷でバーベキューしたり子供駅伝とかで利用しました。
その都度ある一部の河川敷利用で、堤防を長い距離歩いたことなかった。
ところが昨日歩いた豊里大橋と鳥飼大橋の間で、
カッキ〜ンと90度近く曲がってるって、初めて気づいた。
知らんかったのは私だけか…。
この記事、カテゴリーは古代史ミステリーに入れました。
ミステリーではなくて事実なんでしょうが、
現代人は知らない人が多いかもしれないと思ってのことです。
古代の大阪平野は現在からは想像もつきません。
なんで大阪より内陸部の奈良に都ができたのか子供の頃より不思議だった。
この謎が古代の地形図を見て納得したので、
このブログでも何度かこうした地図はご紹介してきました。
そして今回はさらに淀川の流れがどのように変化したかを知り愕然。
大阪府の、治水の歩みというページより古地図もらってきました。
古代
江戸時代
現在
淀川と国道1号線と京阪鉄道は守口近辺では平行して走っています。
R1と京阪の中間に文禄堤があり、これは豊臣秀吉が整備した京街道です。
淀川の堤防だったといわれ、守口市役所すぐ近くには船着場が残っています。
土居にある守居神社は、淀川流域の守護神として此の地に土居を築き社殿を構えてお祀りされたのが創り
1544年(天文十三年)7月9日に前代未聞の大洪水があり、大門鳥居流失し社殿失損宝殿流損
そして同じく京阪電車の土居駅の南側にある高瀬神社は
古くより交通の要所で淀川舟運の拠点として開けてきたと由緒に書かれてありました。
淀川はどのように流れていたんだろうとずっと気になってました。
国道1号線よりも現在、淀川に近い下島や八雲地区ってかつては川や中洲だったんだろうか?
しかし淀川左岸の八雲地区には縄文時代から近世にいたる大規模遺跡があり多数の遺物が出土している。
いったいどうなってるのか調べてみようと、
思い立ったが吉日。
江戸時代の地図の守口→七番、約2.5kmを歩いてきました。
ネット検索で、邪馬台国と大和朝廷を推理するというサイトがヒットしました。
「茨田の堤」というタイトルで章立てされてますので詳しくは→こちら
流離の神社、行基の堀川、仁徳朝の悲願
地形図から読み解く、水利事業から見えてくる歴史。
学校では教えてくれない大阪の歴史がよくわかりました。
クリックで拡大します。
仁徳天皇時代に河川の大々的な工事がなされ、
その形跡が「難波の堀江」や、「茨田の堤」など遺されています。
江戸時代に大和川の付け替え工事がなされ洪水がなくなったのは、河村瑞賢のおかげとか、
かすかに日本史で習ったような気がします。
この5年間、日本の古代史に興味をもつようになり、
四天王寺さん近くの谷町筋で凹んだ部分があるのは、
和気清麻呂が上町台地に掘り川を作ろうと掘削失敗した跡だと知り、へぇ〜!!
和気清麻呂は淀川の流れを変えるためにもいろいろ工夫してたんですね。
実はその前に、行基が淀川の水利事業で努力したことを知りもっと驚きました。
「行基の堀川」よりそのまま引用させてもらいます。
「守口市の北部では淀川が大きく湾曲し、淀川水運における難所として知られていました。
淀川流域では、冬はもちろんのこと年間を通じて西風の吹く日が多いような気がします。
淀川をさかのぼる船はこの風を利用しました。
ところが守口の湾曲部では西風が逆風になって、船の進行を妨げました。
特に冬は逆風がきつかったと思います。
そこで、湾曲部の横に、直線的なバイパス堀川を掘りました。
それが大庭の堀川です。
もし大庭の堀川が完成していれば、守口の難所は解消したはずでした。
残念ながら今、大庭に堀川が残っていません。
いかなる事情があったのかはわかりませんが、工事は完成しなかったと思われます。
吹田の堀川は、守口から都島区毛馬に至る川だと思います。
これは今の淀川にほぼ重なります。
ここでは堀川が淀川本流になってそのまま残ったのです。
次田は誤字でしょう。今の吹田市のこととされています。
この堀川によって、南の蒲生方面へ大きく蛇行していた淀川の流れを短く直線化することができました。
さらに、守口から蒲生に至る古い川を埋めれば、淀川と大和川を分離することになったはずです。
おそらく古い川は、この時埋められたのです。」
「行基の堀川には三つの目的がありました。
一つは淀川と大和川を遠ざけることです。
二つ目は淀川の流れを直線的にして、すみやかに海に流すことでした。
さらに、水運の利便性を高めることも考えられていました。
行基のアイデアは、完全には実現しませんでした。
ようやく明治時代になって、オランダ人のヨハネス・デレーケが淀川放水路を作ったときに、そのアイデアが引き継がれ、ほぼ完全に実現しました。
ヨハネス・デレーケは行基のアイデアを全く知らなかったと思いますが、
淀川と人々のかかわりを理解したからこそ、同じ結論を得たのでしょう。」
堺市の百舌鳥八幡にある家原寺は行基(668〜749)菩薩生誕の寺。
智恵の文殊さんを祀られてるので、受験の時はいつもお参りに行った懐かしいお寺です。
さすが知恵の文殊さん、行基さん、すごいわぁ
仁徳天皇(313-399)第16代天皇
行基(668〜749)奈良時代の僧 溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所
和気清麻呂(733〜799)奈良時代末期から平安時代初期の貴族