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Channel: 秋麗(あきうらら)
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ラテ・アート

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スヌーピーに、チャーリーブラウン、ルーシー、
泡に描かれたラテアート、とても上手に描かれてました。

ノガラッチャというイタリアンレストランに案内してもらいました。
南森町から歩いて5分以内程度の距離でした。
住所は北区西天満5-6-26 Nogarazza



リーズナブルなお値段でどれも美味しかったし、おなかもいっぱいになりました。
コストパフォーマンス的にも大満足。

「春キャベツのズッペッタ」に興味津々でした。
これはまた項をあらためて後日。

最後のカフェは好きなのを選ぶことができます。
4人のうち3人が選んだのは、カプチーノだったような気がする。

カフェラテとどう違うのか…
カプチーノでもラテアートでいいのか…

※ラテ・アートとは、コーヒー・アートともいい、
バリスタによりエスプレッソを基本とする飲み物の上で作られたデザインのこと



書写山(しょしゃざん)ハイク

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日本各地に被害をもたらした春の嵐でした。
あっというまに大阪の桜も散ってしまいました。
姫路にある、播磨国総社の三ッ山の一つが暴風で倒れ観客が怪我をしたとか。
ちょうど昨夕、姫路から電車で帰り着いてすぐにスイッチ入れたTVニュースで耳にしました。

実は昨日は、この三ッ山大祭の最終日で見に行こうと予定立ててました。
ところが、その春の嵐で、出発したのが遅かったし、
夕方6時半には次の会合あり〜ので実際は行けなかったのだった。

向かった先は西国33箇所霊場の第27番札所
書写山・圓教寺(しょしゃざん・えんぎょうじ)

966年、性空上人(しょうくうしょうにん)によって開かれた比叡山と同じ天台宗の修行道場の寺で、西の比叡山とも呼ばれています。

姫路市の北部にある海抜371mの書写山の史跡地に指定された境内は約18?、広い!
ハイカーのちゃんとした身なりの人が多かった。


まずロープウェーに乗ります。
わずか4分ほどの乗車でも、往復で900円。


ロープウェイを降りたら、もうそこは霊山
すぐに入山志納金として500円を払う関所があります。

道は二つに分岐します。


左は整地された馬車道。
観光馬車は2000年3月31日廃止され、現在はマイクロバスが運行し特別志納金500円で利用できます。
右はちょっとしんどそうな坂道ですが約1キロを歩いて登ります。

ここでアプリのWaikerをスタートして、
この地に戻るまで、計測時間1時間47分33秒、歩行距離3130m、4743歩でした。


15分〜20分の道のりの参道に沿って33体の観音様がお迎えしてくれます。



すぐ前に歩くインド人のような若い女性は、ロープウェーから一緒でした。




彼女は宗派が違うからか、仁王門を通らず左横の坂を上がりました。


樹齢数百年の木々に囲まれた、まさに聖地と呼ぶに相応しいお山でした。










秋にこの瑞光院のもみじはすばらしい眺めらしいです。

ラストサムライのロケ地@圓教寺

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ロープウェーを降りて、アップダウンある道わずか1km程度らしいけどかなり歩いた気がする
やっと坂を下りたところに摩尼殿あります。

清水の舞台を思わせる懸崖造りの堂が迫力あります。


こんな山上まで大きな太い木をどのようにして運んだのでしょう。


寺紋、変わってますね。



本尊は六臂如意輪観世音菩薩。
開創の性空上人は、天人が桜樹を礼拝するのを見て、根のあるままの生木に観音像を刻まれました。
そのため岩山の中腹に舞台造りの建物を建立したそうです。

「まに」とは梵語で、どのような願いもかなう如意宝珠をあらわします。

すでに1時を過ぎていたので、お昼食べようと はずき茶屋へ。
最初の画像の右下あたり、写ってませんが橋のたもとにあります。


私が頼んだのは、きつねうどんセット900円。
おむすびは炊きたてご飯で握る固さも塩加減もちょうどよかった。
付き合わせ小鉢ものは、牛蒡きんぴらやひじき、わけぎぬた、などどれもおかささんの味、素朴で美味しかった。

同行者はおでんセット1,000円にしました。
うどんのかわりにおでんと味噌汁がついてます。
先の記事で通りすがりさんがコメントで書いて下さったように、
おでんを生姜味で食べるのは姫路独特のものらしい。
醤油ベースのおでんに、生姜スリおろしがふりかけられてました。
あったまって美味しいと言ってました。

今回のお出かけは事前予習しなかったのでいろいろ知らないことありました。

圓教寺パンフレットにで〜んと載ってる建物はどこにあるのか
はずき茶屋の人に聞くと、摩尼殿からもう少し奥へ10分近く行ったところ、
大講堂、食堂、常行堂の三つの建物は見ごたえありますよとのこと。



なるほど〜ここがラストサムライ2003年のロケ地だったのね。


岡田准一さん主演の映画「天地明察」ロケ地の貼紙みました。





ラストサムライでは勝元(渡辺謙)の住居という設定で、1階の写経道場がロケに使用されました。

食堂(じきどう)とは、修行僧の寝食のための建物。
1174年の創建で、2階建てが珍しく、しかも全長40mという長大なもので長堂とも呼ばれています。
建物は創建以来数百年間の間未完成だったものが、昭和38年の解体修理時に本来の完成形になったそうです。

1階が写経道場で、2階が寺宝の展示館として使われていて無料見学できます。




常行堂は、五間四方宝形造の大規模な建物は比叡山延暦寺と同じ様式


ラストサムライでは勝元が阿弥陀如来座像の前で般若心教を称えるシーンや、
勝元とオールグレン(トム・クルーズ)との会話シーンが撮影されました。

常行三昧(じょうぎょうざんまい=ひたすら本尊である阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行)をするための道場です。


さらに奥の院には開山堂があります。
軒下には四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻が残るという貼紙をみました。


 
皆疲れていたし、先の予定もあり行きませんでした。

ラストサムライに登場する開山堂は雪のシーン。
地面にビニールを敷きビールの泡状のものを敷き詰め雪に模した。
わずか3秒のシーンに数日かけたそうです。

開山堂は、圓教寺を開山した性空上人を祀る堂で、
創建以来と伝えられる灯明が燃え続け今も朝夕欠かさず勤行が行なわれています。

そう聞くと、無理してでも行っとけばよかったなと悔やまれます。





書寫山圓教寺のウェブサイト概要には、
ラストサムライのロケ地として選ばれたことを以下のように書かれています。
「新しい人工の入らない、自然の中にたたずむ建物との調和した時代的な雰囲気が気にいったようです。
自然遺産と文化遺産が別々ではなく、うまく調和を保っているのだと誇りに思っています。

大講堂には釈迦如来像がありその昔、対面している常行堂の舞台では奉納の舞楽が演じられたと伝えられています」

ササはササでもササではない

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圓教寺で一番印象に残ったもの
実は、この立て札かもしれない。

 ササはササでもササではない

苗字に笹という漢字が入ってるから余計に引っかかったのでしょう。

正月過ぎて1月十日のえべっさんは、商売繁盛で笹もってこい♪

7月7日の七夕さまの笹飾り

♪ささのは さ〜らさら
のきばにゆれる
お星様 き〜らきら
金銀すなご

どちらも笹ってよんでますけど、どうみても竹を切り出したに違いない…

笹は、笹の葉すしとか笹かまぼことか、
どちらかといえば葉を使ったときに笹だと認識してました。



竹も笹もまっすぐに延びて成長します。
成長しても竹の子の皮が残ってるのが「ササ」というのが一般的見解らしい。

植物学的には一応「ササ」と「タケ」はわけられてはいます。
しかし、タケ・ササの仲間は分類学上未解決の問題が多く、属や種の認識もまだ定説に達していないようです。

文科省では「稈を利用する」のが竹、「葉を利用する」のが笹という定義をしています。
納得!!


笹の葉さ〜らさら♪
笹葉の擦れ合う音は神さまを招くと考えられていました。
天上に住むとされるご先祖さまの霊が地上に降りてくるのです。
その際に穢れを移した笹竹を川や海に流していたものでした。

今回の疑問により、検索で知りえた豆知識

五節句(江戸時代に公式的に法制化された式日)
1月7日−人日(じんじつ)七草
3月3日−上巳(じょうみ)桃
5月5日−端午(たんご) 菖蒲
7月7日−七夕(しちせき)笹竹
9月9日−重陽(ちょうよう)菊

    
日本文化いろは事典より
日本では古来より、「棚機つ女」といわれる女性が、機〔はた〕で織った布を神におさめ、病気や災厄が起こらないように願ったという話がありました。
七夕(しちせき)を「たなばた」と呼ぶのは、この「棚機つ女」がもとになっています。
そして、中国の文化に強く影響を受けた平安貴族たちは、竹竿に糸をかけて願いを星に祈るとかなえられるという乞巧奠(きこうでん)の習わしに従い梶の葉に歌を書き付けて手向ける「星祭り」を行うようになりました。
その後、乞巧奠が大衆の間にも広まり、やがて棚機つ女と結びつき現在のように7月7日の七夕となっていったようです。
江戸時代に入ると、短冊に詩歌を書き、笹竹に軒先に立てる風習が寺子屋の普及とともに浸透していきました。
明治になり、各地の商店街などで大規模な七夕祭りが開かれるようになり、さらに一般の人々の風習として広まっていったようです。

立派なお弁当が楽しみな質屋ハイク

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大阪質屋健康保険組合のハイキングがありました。
「天王寺七坂史跡めぐりコース」
天王寺公園入り口に9時集合



目の前にあべのハルカスがで〜んとそそり立ってました。



天王寺公園内の和気清麻呂が掘った池越しに通天閣が見えます。







ボランティアガイドさんが3人来てくださってたので3つのグループ分かれて歩きました。
うちらの担当は82歳のおばあさん。
めっちゃ物知りで辛口トーク炸裂。
へ〜っというエピソード、いろいろ知らんかったことありました。
忘れへんうちにスマホ撮影の画像探してレポートしますので、また見てください。

比叡山、修行の道を歩く

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昨日早朝の地震はびっくりでしたね。
6時に目覚まし合わせてたけど、これで起されました。

7時半に守口駅で待ち合わせしてました。
どうする〜って二人から電話かかりました。
震源が淡路島の伊弉諾神宮近くだから1回ポッキリの号砲のように思えました。
電車も少し遅れるぐらいで大きな余震なさそうやから、行こうと答えました。

前日も質屋組合のハイキングで少しは疲労も残ってます。
ブログ記事も全部書ききれてないし。

連日の参加を決めたのは、比叡山ドライブはよくある話ですが、
修行道を歩くというのにそそられました。
これはチャンスないとそうそう体験できませんから。


京阪出町柳まで片道450円、叡山電鉄260円、ケーブル530円と乗り継いで、
10時ごろ出発しました。



歩き始めて1時間ほど、東塔の根本中堂手前ではまだ元気でした。

ここで、東塔、西塔、横川などお堂めぐりをされる方と別れます。
大丈夫、楽勝ですよ〜
というイソッチにだまされて大原へ下山するロングコースを選択してしまったのだった。



西塔「にない堂」

怪力で知られる弁慶が、この渡り廊下を天秤棒にして左右のお堂を担ぎ上げたといわれ、別名「弁慶のにない堂」


元三大師、がんざんだいし と読みます。
比叡山中興の祖・慈恵大師(良源)が開かれた棲身修行・厄除け・息災祈願の根本道場がある場所が横川です。

※朝廷から贈られた正式の諡号(おくりな)は慈恵大師であるが、
命日が正月の3日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。
全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている。


ココから道が厳しくなりますが、ホンマにつらい時は写真撮影どころではない。

一部分、奥比叡ドライブウェート平行している所に立て看板。
極楽への道です。




やっと見晴らしの良い玉体杉にたどり着きお弁当休憩となりました。







ちょうどいい場所あったとお弁当広げました。
石造りベンチ中央には菊の台座があります。
これってやばくない?

回峰行者さんが唯一、ここで腰を下ろすことが許されていると教えてもらいました。
そして御所に向かい玉体加持(天皇のご安泰をお祈りする)されます。



ここから横川、そして仰木峠を越え、大原までの道のりはもっと過酷なものだった。



回峰行の阿闍梨さんって夜真っ暗な中も歩かれるんですよね〜





下りも膝にきますが、段差の激しい登りはきつかった。


お世話になったP社のスタッフの方々。
遅れがちな私のペースを見守ってくださいました。
ありがとうございました。

大原の里到着!!


この画像中央の女性はなんとウォーキングツワモノでした。
お伊勢ウォーキングの話をしてたら、彼女も最近個人的にスタートしたそうだ。
1回目、玉造稲荷神社から奈良まで30km歩いたというのです。
私が参加してるツアーでは1月から3月まで3回かけて歩いた距離です。
あの暗峠を初日に越えてさらに奈良市内まで!!



このたびの比叡山修行の道を歩くコース
ケーブルの比叡山口から、大原へ下山。
14km以上、約2万歩ほど歩きました。


心は、千日回峰行の阿闍梨さん目指しても、体はぼろ雑巾のようにヘロヘロに疲れました。
心身一体の修行が必要ですね。

抗生物質アレルギーショック

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鉢植えの小さな木にすずらんのような可憐な白い花が付いてるのに今朝気づきました。
これはブルーベリーの花です。
数年以上前に、グリーンプレゼントで実がたわわになったブルーベリーとしてもらったから間違いないです。

木の名前知らんかったら、何の花かな〜といぶかしんだことでしょう。

蕾すらに気づかなかったのにはワケがあります。

抗生物質アレルギーで苦しんでました。
最初はそうとはわかりませんでした。

3月30日夜に猫の爪で手の甲血管傷ついた話は書きました。
そのときに2011年12月に耳鼻科で処方された抗生剤フロモックス1錠残ってたので服用しました。
あと2回は念のために飲みたかったけど、もうなかった。

家に抗生物質が常備されてると、イザというとき役立つなと思いました。

土曜晩の怪我だったし、そのまま自家治療で治まり手の甲は快復に向かったので、週明けにも病院には行きませんでした。



1週間後、喉も痛いし痰が少々黄色くなりだしてるし、
花粉症や喘息に効く抗アレルギーの薬がいるしで、耳鼻科へ。
抗生剤フロモックスも処方してもらいました。

4日分12錠あったので、1シートより外れてる2錠だけとりあえず服用した。
多少喉の痛みがましになったような気がしたが、異常に目が痒かった。
いつもなら効果ある目薬も全く効かない。
今年のひのき花粉は凶悪だなと思ってた。
(昨日調べて、抗生剤アレルギーに目のかゆみというのを知った)

12(金)天王寺七坂ウォークの日だったので、念のために前夜に抗生剤服用した。
目の痒さはんぱない。
涙も出るしで何度も目をぬぐいながら歩いてたので、他の参加者は怪訝に思われたことでしょう。

PM2.5に黄砂、花粉の飛散3兄弟がよっぽどひどいのかと思われました。
夜、少林寺拳法の稽古にいったら、
5月の府大会に一緒に出場する相方が、咳でてますけど風邪ですかと聞いた。
そういえば咳してるやん、私…。

この日は稽古帰りの飲み会行かず、翌日比叡山ウォークに備えました。
なんか息苦しく目も痒くて体調最悪、快適な睡眠はとれずうつらうつら朝を迎えたのだった。

13(土)早朝、地震に起こされ、朝食後またも抗生剤1錠服用。

もちろん空咳はどんどんひどくなってたので↓こんな格好で歩いてました。


軽い喘息状態で気管支はぜーぜー音出し始めてましたから、
急坂のぼりが続くと呼吸が苦しくて、休憩中の顔は撮られたくない。



皆さんにサポートしてもらって無事に大原に下りることができました。


大原を3時過ぎのバスにのり40分ほどで出町柳へ。
家に着いたのはまだ早い夕方だったけど、真っ先にお風呂に入り足をマッサージした。
夕食後、また抗生剤を飲んだ。

足も痛いけど、呼吸が苦しい。
いつもの喘息とも少し違う。
空咳はひっきりなしだから、横になってられない。
声もかすれてくるし腹筋も痛くなる。
体ぐったり、単なる筋肉疲労ではないしんどさ。
日曜日は、とりあえず画像整理してブログ投稿してゴロゴロしてました。

なんかこの体調の悪さはおかしいなとは思ってた。
しかし週末仕事休んでるし、月曜日は週明けで忙しいので、息苦しい体を引きずるようにして出勤した。

喘息状態には違いないけれど、ちょっとおかしいとネット検索した。
「抗生剤 副作用」ではなく「抗生剤 アレルギー」
そしたらいろんなことがわかりました。
アナフィラキシー ショック死もありえます。
この夜を迎えるのが怖くなりました。

恐ろしくなって夕方クリニックへ行って点滴と吸入処置してもらいました。
お医者さんは翌朝も来院するように言われました。

夜はまだまだ不安の残る体調でした。
しかし今朝はびっくりするほどに劇的快復しました^^


看護師さんからも抗生物質のアレルギーのいろいろを教わりました。

一般的に、どなたもお医者さんでもらった薬は一応服用されるでしょう。
頭から疑ったりしません。
先に信用ありきです。

しかしこれからはまず自分の体にきいてみないといけませんね。
どの薬を飲んでどんなふうだったか、ちゃんと記録残しておかないと。

以前ジスロマックという抗生剤でエライ目に遭った話を書きました。
2010年12月30日

これが引き金になり、その冬は何度もひどい喘息発作に見舞われ死にかけました。

ジスロマック系の抗生剤はダメなのはわかってましたし、それを事前に医師に伝えてます。
しかし一度抗生剤のアレルギーが出ると
どんどん波及してそれ以外の抗生剤にも影響あることを知りました。
微妙に成分違うので大丈夫な抗生剤もあるそうです。

薬飲んでるけど、治るどころか、空咳続くとか目が痒いとか発疹出るとか
よくよく自分の体を観察なさってみてください。
時には抗生剤アレルギーがひそんでることがあるやもしれません。

朝鮮総連系在日コリア寺院 統国寺のベルリンの壁

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先週、天王寺七坂をボランティアガイドさんに案内してもらった時の話です。

その1回目は、天王寺公園東側にある統国寺からご紹介します。
早よ書かんと、どんどん忘れてしまうから。



この写真でわかるでしょうか、このあたりは有名なラブホ街です。
なぜ大阪市の天王寺公園すぐ脇でいりくんだ土地がこんなことになってるのか不思議です。
難波も梅田も同じで、戦争で焼け野原となり戦後のどさくさで不法占拠か
と、思っている大阪府民は多いことでしょう。



右手の立派な門構えは、「阪口楼」という普茶料理の料亭です。
格式も高いですが、お値段も立派です。
ボランティアガイドさんの辛口トークの第二弾がこの値段でした。

最初に言われたのは、天王寺公園の純日本回遊庭園・慶沢園のこと。
「住友家が大阪市に寄付したのに、どこぞの市長さんは売りに出すと言うたはる。
そんなことするんやったら返せと、住友はん、言わはりまっせ」






日産リーフ充電中も境内の中ということは、お寺の車でしょう。
10−59 とうごく 統国寺 ぴったりやん!


先だって、朝鮮総連の中央本部の土地建物を、最福寺の池口恵観和尚が落札されたのでした。

朝鮮総連系ってお金の流れどうなってるんでしょうね。



右角曲がってすぐにありました、ベルリンの壁!
大阪にこんなのがあるなんて、全く知りませんでした。

国家分断という同じ歴史を辿る朝鮮半島の統一の思いをこめて寄贈されたのでしょうか。




お堂を覗いてみると、やはり中は日本の寺院ではないでした。


裏に廻ると、目の前に茶臼山と河底池、そして通天閣がみえます。



振り返ると、お堂越しにあべのハルカス


一等地です。

お隣の阪口楼の庭も手入れが行き届いています。



かつては、老舗料亭として超有名な場で、日本の政治経済界の夜の社交場であったそうです。
今ではラブホに囲まれて、お気の毒としかいいようがない…。

なんでこんなことになってしまったか。
もとはここには、聖徳太子が建立した和気山邦福寺があったそう。

入口に「百済古念仏寺」の石碑が建立されてるのは、百済の観勒という僧を602年に招かれたことによります。

設立当初の宗は玄奘三蔵ゆかりの法相宗でした。
その後、大阪の役で焼けたあと、黄檗宗の僧を招いて再建されました。
黄檗宗ならではの中華風の建築が残り、貴重な文化遺産になっています。

ところが、時は昭和44年(1969年)エキスポ70の1年前やわ。
朝鮮総連系仏教団体・在日本朝鮮仏教徒協会が買収し統国寺と改称されたのですって。
大阪は日本で最も多くの在日朝鮮人が住んでいるので参拝者が絶えない、のだそうです。

「なぜ無神論のマルクス主義を奉ずるとされる、北朝鮮政府の出先機関が仏教団体を組織しているのかは謎である」

ご関心のありの方は→こちら

天神坂の安居天神の菅原道真と少彦名

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安居(やすい)神社  大阪市天王寺区逢阪1-3-24
祭神は少彦名神と菅原道真

小さな神社ですが話題いっぱいの天神さんでした。



境内図の中央少し下に大きな鳥居が描かれています。
その下に参道と書かれ、左側に安居ビル
これは最初の画像、安居天満宮の後ろに見えるビルです。

大丸デパートのセミナーハウスで、秘密会議とか行なわれてるんだって。
なんせ、この安居天神の氏子は大丸さんたった一軒だと聞きました。

へぇ〜そうなん? ほんまに?

ちょっと調べてみたら、
一心寺長老(高口 恭行 師)コラム 天神坂がヒット。

一心寺の北100mの所に「天王寺七坂」の一つ「天神坂」があります。
言うまでもなく、菅原道真公を祭る「安居天神」に面しているのでこう呼ばれているわけです。 
…中略…
天神さんの「安井の森」が大坂夏の陣ですっかり荒廃していたのを
寛延3年(1750年)当時逢坂上ノ町に居住していた大丸呉服店(現・大丸百貨店)の初代主人下村彦右衛門が見かねて修復したといいますから、
その折に周囲の坂道も整備されたのではないかと私は思っております。
…略…
今日でもいわゆる氏子さんは大丸百貨店1社のみと伺っています。
近年、坂道がきれいになり、また安居神社では大坂の陣が戦われた5月7日あたりに甲冑(かっちゅう)装束の真田幸村祭典が行われるなど、訪れる人も多くなって結構なことです。


真田幸村の銅像は、撮影したつもりがうっかり削除してしまって無かった。


境内図では淡島大神と書かれてますから、少彦名を祀ってることを明記してます。

牛の石像もあります。

神社創建は聖徳太子が四天王寺を建てられた頃と伝わります。
四天王寺の僧侶がここで夏安居(げあんご:雨季の間に外出を控え寺院で修行に専念すること)することもあり、「安井」が「安居」になったという。

やがて時代が流れ、昌泰4年(901)菅原道真が太宰府に左遷された際、
河内の道明寺にいた伯母覚寿尼を訪ねて行く途中、ここへ立ち寄って安井(休憩)した。
道真に同情した村人がおこしを差し上げお礼にと菅原家の紋所「梅鉢」をもらった。
これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の梅鉢となったといわれている。
岩おこし(粟おこし)が大阪名物となる発祥がここにあったのだった。


安居天神社は、その道真の死後の天慶5年(942)道真の霊を祀るために村人たちが建てたもの。




神社の西側は急な階段参道です。
かつては海がココまできてたのでした。
茅渟の海(大阪湾)を遥かに見下ろす景勝の地でした。




ボランティアガイドのおばちゃんは、古代の大阪湾が描かれた地図を見せて説明してくださった。



古代、ここに四天王寺の安居院が建てられた際、天神と地神が祀られた。

その後『天神』が「道真公の天神さん」と混合されて菅原道真公が祀られるようになった。
あちこちの天神さんにも、そういうことあるのでしょう。
私も少彦名の神様って、ほんの数年前まで全く存じ上げませんでした。

天王寺七坂

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先週金曜日に歩いた天王寺七坂は歴史も満載なら不思議もいっぱい。
1週間もたてば、かなり忘却のかなたです。

2年前、Eちゃんに付き合ってもらって四天王寺さんから生玉さんまで歩きました。
あの時も、もちろんそれなりに予習して歩きました。
しかし、今回はボランティアガイドさんがいるので情報満載でなかなか先に進まれへん。


天王寺ゲートを9時半ごろ出発して、生玉神社でお弁当です。
慶沢園の左側塀を通り、統国寺、堀越神社、一心寺を経て
国道25号線を渡ります。
ココが「逢坂」、国道を渡ると逢坂2丁目となり、安居神社があります。
境内通り抜ける時、玉姫稲荷というのが気になりました。
地図では玉姫神社と書かれてあります。
これも調べてへぇ〜ということ発見しましたが、触れずに先に進みます。

天神坂から、清水寺の「玉出の滝」見学。

京都の清水寺にある音羽の滝にならって三筋のもの。
ガイドさんの辛口トークによりますと、
夕方4時になったら止まるというウワサも…。

清水坂


アニメ満載の立て看板林立してた寺


愛染坂の北側に大江神社鳥居。
「百歳(ももとせ)の階段」
「この階段は、百一段あり、人生の区切りの百歳よりあともう一歩 心も身体も健康でありますようにと願いを込めて名づけました。一歩、一歩踏みしめて神様にお参りしましょう」

このあたり天王寺北村は大江神社の氏地らしい。
によって、安居神社は無格社で氏子をもたないようです。



天王寺七宮の一つで乾の社として毘沙門天を本尊にしていたが
明治維新の神仏分離によって、今は豊受大神を祀っています。
狛犬ならぬ狛虎は阪神タイガースの守り神、多くのファンが参拝されるそうです。



続いて愛染さんへ
四天王寺施薬院跡・愛染堂(勝鬘院)



「腰痛封じの石」

背もたれの石の突起に背骨のツボを押し当てると、腰痛に効くとか。


多宝塔は1594年(文禄3年)秀吉の建立によるもので、重要文化財

到着の生玉さんまで書ききれるかどうか自信ない、です。

お気に入りラーメン

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今はまってる塩ラーメン。
とろっとろのチャーシュー、燻製卵が美味しい^ ^

餃子も一口サイズがちょうどいい。
ラーメン700円、餃子200円。
私的には醤油より塩ラーメンのほうが美味しいように思えました。


麺屋 飯蔵
守口市寺内町2-9-36
日祝休み、営業時間はランチ時と夜は7時から深夜3時まで

伊勢神宮への道★奈良から天理までにみた鬼瓦とか

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お伊勢さんまでのウォーキング4回目は、奈良市猿沢池から天理市五智堂まで。
案内では16kmで、これだけでもちょっと不安でした。

体調整えるために、前夜は少林寺の稽古終了後に飲酒せずラーメン食べて帰りました。

そして昨日朝、9時半頃には東大寺前の駐車場に到着。
今回は160名ほどの参加でバス4台でした。

10:15出発まで約45分の自由時間、
私たちは手向山八幡宮と二月堂近辺を40分ほど散策しました。












午前10時25分スタート時にセットした「Walker」帰宅まで作動したデータでは
歩行距離 18.541km
歩数 28,093歩
同行者の家からの万歩計では35,000歩程度でした。

人生で一番歩いた日でした。
平坦な道だったのでいきが上がることはなかったけれど、足は痛い。








帯解寺、懐妊安産にご利益あるお寺として有名です。





お寺の前の家の屋根にも飾りが載ってました。



到着点 五智堂


中央に一本柱の傘型屋根付き堂は、鎌倉時代の創建
真言宗長岳寺の飛び地境内、建物全体で五智如来(大日如来)をあらわす。


最後の見学場所、黒塚古墳


三角縁神獣鏡33面が出土した、3世紀後半から4世紀の竪穴式古墳

手向山八幡宮と鳩、そして菅原道真

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鳩が向き合ったかわいい神紋です。
「向い鳩」は八幡の八をあらわすともいわれています。
鳩は八幡大菩薩の使いであると言われ、勝利を呼ぶ瑞鳥だそうです。

平和の象徴鳩は、西洋の認識で、日本では昔から武運を祈る鳥。



そうとも知らず、身体健康と書いてしまったわ。
外人の多い東大寺では、英文字の祈願文も見られました。



手向山八幡宮は、八幡宮の分社では第一号です。
749年に東大寺を建立、大仏を鋳造する際、大分の宇佐八幡神が勧請されました。





このたびは ぬさもとりあえず たむけやま もみじのにしき かみのまにまに

高校時代、小倉百人一首を全部暗記させられました。

このたびは 幣もとりあへず 手向山
 紅葉の錦 神のまにまに
       菅家



菅家は、菅原道真を尊敬した呼び方であると、この年齢になって知りました。

898年秋、道真が宇多上皇の御幸のお供で奈良の吉野へ行く途中のこと。
供の一人が、道祖神にお供えするものを忘れてきてしまった。
「これは困った!道真、どうしよう」
「はい。それでは私が歌を捧げましょう。」
こうしてこの歌が作られたそうです。

翌899年、藤原時平が左大臣に、道真が右大臣に任じられます。
菅原道真は吉備真備につぐ学者出身の大臣となりました。

「藤原氏でも無い者が大臣の位につくなど、ありえぬ。
このままでは藤原氏を越して太政大臣にもなりかねない…」

藤原時平は醍醐天皇に
「道真は帝を追放し、弟君の斉世親王を天皇の位につけるつもりです。
これは謀反です!」

醍醐天皇は、もともと口うるさい道真とその背後にいる父宇多上皇を煙たく思っていました。
そこへ時平の讒言です。
ここぞとばかりに菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷し、大宰府送りとされます。

都から遠く離れた大宰府、浄妙院(榎寺)に謹慎すること二年。
延喜3年(903年)2月25日菅原道真は失意のうちに没しました。

猿沢池の不思議伝説

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三条通りの東詰、猿沢池の西北角に采女神社があります。
西向きの社殿で有名で、鳥居から社殿後がみえます。

春日大社の境外末社で、先月春日大社を調べているときに知りました。
3月のウォーキングでは全く気づかなかったので、
先週猿沢の池からスタートする伊勢ウォークでしっかり写真撮ってきました。

これはよそのグループが説明受けているの図です。
私たちは素通りしただけだったので、歩きながら急いでシャッター押しました。





采女神社
奈良市樽井町15
祭神;言代主命(事代主命)であるが、一説に采女命(ウネメノミコト)

ウネメとは、天皇の後宮に仕えた地方豪族出身の女官のこと。



毎年、中秋名月の夜に采女祭が催されます。
采女の霊を祀る祭りで、猿沢池に龍と鳳凰の形をした2そうの船が浮かべられ花扇と共に池を2周回ります。
かつての采女の出身地だったといわれる福島県郡山市から選ばれたミス采女を乗せ
幽玄な雅楽の調べの中、池を廻りながら花扇を投げる神事は、とても幻想的らしい。

そしてこの日だけ、采女神社は開かれていてお参りできます。
どうやら縁結びの神様とのこと、
このときだけ販売している糸占いというのがあり、月明かりの元で紅い糸を針に通すと願が成就するんだって。



奈良時代、平城天皇(806〜09)のころ、
天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女(女官)が、猿沢の池に身を投げた。
この霊を慰める為、祀られたのが采女神社の起こりとされる。
入水した池を見るのは忍びないと、一夜のうちに御殿が池に背を向けたと伝えられる。


実は、采女神社は福島県郡山市にもあり、別の采女伝説があります。

福島県郡山市観光協会「安積采女の由来」
今からおよそ千余年前、奈良の都から葛城王(後の橘諸兄)という方が、地方の政情視察、監督のため、陸奥の国安積の里と呼ばれたこの地に着き、村里の状況を視察されました。
里人は王の気嫌を損じてはならないと懸命にもてなしましたが、ますます気嫌が悪くなるばかり、そこで国司は美人で評判の春姫を召し出しました。
春姫は心から王をもてなし、王の前に杯を捧げ
「安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思わなくに」(万葉集)
の歌一首を献じました。
和歌にすぐれた王はことのほか喜ばれ、春姫を帝の”采女”として召し出すよう申し渡しました。
このため里を離れることとなった春姫は、悲嘆にくれましたが、里人の窮状を救うためとあきらめ、王とともに都にのぼりました。
ある日、猿沢の池のほとりで月見の宴が開かれたとき、なつかしい里への思いがつのり、春姫は宴席を離れ、柳の木に衣を着せかけ、池に身を投げたように見せかけて、一路安積の里をめざし逃げ帰りました。
ようやくの思いで里にたどり着いた春姫は、都からの後難を恐れた里人の冷やかなまなざしと、困惑した顔に生きる望みも失い、山の井の清水に身を投げこの世を果てたという。


采女伝説など共通点があることから奈良市と福島県郡山市は姉妹都市だそうです。

  

猿沢池はもと興福寺の放生池として、奈良時代天平21年(749年)人工的に造成されました。
放生池とは、仏教の不殺生の思想に基づいて捕らえられた魚類を放つための池であり、
かつては多くの寺がこのような池を造っていました。



「澄まず濁らず出ず入らず 蛙はわかず藻は生えず 魚が七分に水三分」

流失する川、流入する川もないのに常に一定の水量を保っていて
不思議な池には、不思議伝説が残されています。

むかしむかし、猿沢池には、善達竜王という王様のような竜がすんでいました。
自分が住処にしているこの池にある女が身を投げました。
天皇の寵愛が薄れたことを悲観して死を選んだ采女だった。
(ウネメとは、天皇の後宮に仕えた地方豪族出身の女官)
それを嫌った竜王は、春日の香山(こうぜん)に移動したところ、
今度は死体をこの山に捨てにくる人がいたので 
またまたイヤになって逃げ出し“室生の龍穴”まで移って行ったという話です。


祭神;言代主命(事代主命)であるが、一説に采女命(ウネメノミコト)

これまた、不思議な話です。
事代主神とは、大国主神の子どもで、出雲国譲りで最後の決定をしたことになってます。
美保で魚釣りしてて、乗っていた舟をひっくり返し藻屑と消えました…。


何で? 
ものすごく気になったので検索を続けて発見しました。

采女神社の社が裏を向いているのは、
もともとある屋敷の北東の隅に事代主命をお祭りしていたものだった。

「元要記」によると、弘仁年間(810〜824)、興福寺南円堂鎮檀の時、
人夫のなかの青衣の女人が池の方に逃げ去って行方不明になった。
藤原久嗣の八男良世が西向きの社を建立、興福寺興南院の快祐が勧請したと伝える。

何で、またここで青衣の女人が登場するのでしょう…?

東大寺修二会の青衣女人→こちら

この春は、百花繚乱で

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ここ数日寒かったですが、今朝はだいぶ気温上がってきました。
このあとギズモのフリース脱がせました。

その気温の低さが幸いしてか、遅咲きの八重桜は長いこと花もってました。
そこへツツジや、ハナミズキや、花壇の花々も百花繚乱。

毎日自転車で疾走してますが、時にはわざわざとめて撮影したりして。






先週には知人のおうちで還暦を迎える藤の大木も満開でした。



カネノナルキの花も満開状態が長いこと続いています。
そしてお正月の葉牡丹が黄色い花を咲かせてます。
今年は街角のあちこちで葉牡丹の花みました。


年末にもらったタマネギはエライことに (>_

ドウダンツツジ★満天星 or 灯台躑躅

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すずらんのような白い花がいっぱい咲いていて、
あれは何? と尋ねたら、「どうだんつつじ」と教えてもらった。

伊勢ウォークを一緒に歩いているAさんとNさん、ともに植物めっちゃ詳しい。

歩いている途中で撮影している余裕なかったので、Wikiより画像もらってきました。


ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星、学名 Enkianthus perulatus)
ツツジ科落葉広葉樹。
あまり大きくならず、秋に真っ赤に紅葉するのも見事。



自然に樹形が整うので、庭木に好適だそうです。
関東以西の温暖な地に多く植えられ、新緑、花期、紅葉と、見時が多い。
花期は、葉が出てから約1週間後(4月上旬〜5月中旬頃)



古くは「トウダイツツジ」と呼ばれていたらしい。
「トウダイ」灯台が「どうだん」に変化しました。
枝分かれしている様子が、
3本の棒を結んで油皿をのせた「結び灯台」に似ているところから。

中国語でつつじをさす dujuan の音が「ドウダン」に似ているからという説も。


また、「満天星」の方は中国名に由来する。
中国の太上老君(たいじょうろうくん)が誤って天から霊水をこぼし、
この木にかかって壷状に固まり、満天の星のように輝いたという伝説の木

つつじは「躑蠋」という難しい漢字です。
躑蠋(てきちょく)とは足踏みすることで、
中国で毒性のあるツツジを羊が誤って食べたところ、
足ぶみしてもがきうずくまってしまったことからこの字が当てられたそうです。



和名の「ツツジ」の名前は
花びらの元をよく注意して見ると、筒状になっている。
このことからツツジの花の形は筒咲きと呼ばれ、この筒咲きが変わって「ツツジ」になったと言われています


Enkianthus(エンキアンサス)は、
ギリシャ語の「enkyos(妊娠する)+ anthos(花)」が語源で「膨らんだ花」の意
perulatus : 鱗片のあるポケットのような

奈良上つ道を歩いてみたもの

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奈良から天理まで歩いていると、普段の車での移動と違っていろんなものが目に留まります。

古代、上つ道(かみつみち)と呼ばれた上街道は、
北は奈良坂から、南は桜井、山田道を経て藤原京に至る幹線道路のひとつ。
初瀬詣でや伊勢参りの人々がいきかう信仰の道となり、街道筋は今も当時の面影を残しています。



もうすぐ5月の節句なので、大きな武者幟を見ました。
大阪では見たことないです。

武者のぼりの起源は、「戦国武将の旗指物」
室町時代末期の武家社会には、
端午節句に旗指物(家紋を染め抜いたのぼり旗)を虫干しをかねて飾る風習がありました。
武家の風習を庶民がまねて、端午の節句に武者のぼりを全国各地で立てるようになり、
武者のぼりの風習は、あらゆる身分の人たちにまで浸透していきました。
江戸期は木綿が貴重だったため、多くののぼりが紙製でした。



幕末江戸日本橋十軒店の端午の節句の図(1870年)パリ・アシエット社版画



歌川国芳「しんば連 魚かし連 市川三升へ送之」 幟と鯉幟(見立て絵)1849年

鯉のぼりは武者のぼりの変形として考案されたもの。
節句の武者のぼりに古来より描かれていた鯉の滝昇り
江戸中期に、立身出世の図柄から作られた「鯉の小旗」が考案されました。
これがやがて大型の吹流しタイプである鯉のぼりに変化、独立したのです。


従来の絵画表現である武者のぼりに対し、
新しい立体表現の鯉のぼりは、明治大正以降主流となりました。
これは明治維新以降、伝統的な画法をもつ絵師が減った事も影響しています。


奈良では石屋さんもよく見かけます。

うちのゆうりもアンパンマン大好きです。



池の上全体に細い紐がくまなくはりめぐらされています。


金魚を養殖しているようで、鳥よけでした。


さらに歩いて、大和神社。


この神社の参道はとても長くて、一の鳥居からは社殿が全く見えない。
往復10分はゆうにかかりそう。



大和(おおやまと)神社
天理市新泉町306
祭神:大和大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)
   八千戈大神(やちほこのおおかみ)
   御年大神(みとしのおおかみ)


伊勢神宮と並ぶ最古の神社で、延喜式には「大和坐大国魂神社」と記されている。
大和一国の国御魂(くにみたま)を祭る名神大社である。

遣唐使が唐の都・長安に向けて派遣されるときは、出発に際して航海の安全をこの神社に祈ったといわれている。
第二次大戦中世界最大の不沈戦艦といわれた戦艦大和は、守護神として大和神社の分霊を艦内に祀っていた。

これを読んで、なんだか長い参道を歩いてお参りする気が失せてしまったのだった。


後で調べたら、

御祭神の大和大国魂大神と八千戈大神は、ともに大己貴神(おおなむちのかみ)の異名同神だった。

拝殿前の広場北側のやや奥まった場所に末社の「祖霊社」があり
国土の主と称えられている大国主命のほか、
第二次世界大戦で戦艦大和と運命を共にした2717柱の英霊、
沖縄決戦で戦没した巡洋艦矢矧(やはぎ)を中心とする第二水上特攻隊の3721柱の英霊が合祀され国家鎮護の神として祀られている。

メイクアップ化粧品

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洗面台で、1分化粧してるときに、
ランコムのチーク、頬べにケースを落としてしまった。
まだ半分以上残ってたのに、粉々にわれて収拾できる状態になかった。
しょうがないので、取り急ぎ
近くのドラッグストアへ。
あまりの安さにビックリ感激(^o^)/
チークカネボウ製品 \700➡588

どれもこれも超安いので、ついでに
アイブロウ眉墨、\560➡470
メーク下地、\980
これらは資生堂。

明日使ってみるのが楽しみです。

もさもさの もささのやまに ささもなく…♪

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これは妹の貯金箱。
私が中3のときに亡くなった祖母のものでした。
どうやら銅製のようで、黒光りの剥げた部分には赤胴が見えています。

なぜに突然、この古〜い骨董的貯金箱が登場したかというと、
おばあちゃん直伝のおまじないの話をしたかったからです。

先だって、姫路の書写山で
ササはササでもササではない」という看板に異常に反応した話を書きました。

これで突然思い出したことがありました。

糸がもつれてこんがらがった時のおまじない
「もさもさの もささのやまに ささもなく
ささもなければ もさもさもない」

これを唱えながら、もつれをほどくとイライラせずにほどける
とおばあちゃんに教えてもらったからです。

妹に確認したら、妹もちゃんと覚えていました。
祖母が他界したのは1968年秋なので、半世紀ほど前の話です。
今でもこのおまじないは使っています。

皆さんの地方でも、こうしたおまじないありますか?


「もささ」とか「もさもさ」で検索したら、なかなかヒットしません。

いろいろ検索ワード変えて調べたら、

モシャシャ モシャシャ モシャシャ モシャシャ
モシャシャ モシャシャ モシャシャ モシャシャ
モシャシャのシャモシャ
シャシャ モシャシャ シャシャ モシャシャ
シャシャ モシャシャ シャシャ モシャシャ
モシャシャ なければ
シャシャも シャも ナシ!

これは、NHK教育テレビ「にほんごであそぼ」
CD「百」〜たっぷりうたづくし〜 の Disc-1
M-28 モシャシャ として収録されているようです。

「糸のもつれ おなじない」で論文がヒットしました。

糸のもつれを解くまじない「上直瀬(旧川瀬村)の民俗」
発行年月日 S35年12月25日
発行所 愛媛大学農学部付属農業高等学校郷土研究部
要約 糸がもつれたときは
「もしやしやの しやしやの しやしやもしやの しやしやもしやあれば もしやしやあるまい」と言うといわれている。


糸もつれ 呪文「播州加東郡市場村附近の呪文歌と呪ひ」
発行年月日 S11年12月5日
発行所 三元社  
執筆者 国井 重三
要約 糸がもつれた時、「笹草や」で始まる歌をよく唱えた。


ササ繋がりで、
ささのは さ〜らさら のきばにゆれる♪

なんか不思議ですね。



市杵島比売命が「笹神社」として祀られていた、鴨都波神社。
あれ以来、コトシロヌシが気になって、気になって。

5月10日に、60年ごとに遷座される出雲大社。
そして美保神社と日御碕神社がセット参拝になったツアーを見つけました。
ご神気のつよい5月13日に昇殿参拝で、すでに3月に申し込んでました。

ところが、翌14日が例祭で参加集中するようで、前日は人気がなくツアーが成立しなかった。
14日は保護司会の総会で欠席できないから、あきらめて6月にしました。
2008年8月8日に出雲大社参拝以来、あれから5年過ぎてました。
お天気に恵まれるといいのですけど…

今日は八十八夜

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もう五月だというのに、寒いですねぇ〜

暦を見ると、今日5月2日は八十八夜と書かれてました。

夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘じゃあないか
重ね襷にすげのかさ ♪

昨夜のニュースで、出雲で茶摘のシーン写ってました。
気温が低いので成長が例年より遅れてるし、霜被害少々見られるとか。
今後、他の農作物の成長も心配です。

出雲のイナズマと呼ばれる女性棋士が5冠達成したというのも見ました。
里見香奈さんは21歳だそうで、すごいなぁ〜

今月10日に出雲大社は60年ぶり遷宮行なわれるし、ニュース満載です。


画像の薔薇、一昨日の夕方は明日ぐらいから咲きますよ〜って感じでした。


昨日の夕方はだいぶ開いてましたが、
もうすでにあたりは暗くなってたので今朝撮影したのが最初の画像です。


ちなみに我が家のプランターに植えたレンゲソウに、2つ花ついてます。

さて、八十八夜とは雑節のひとつ。
雑節とは二十四節気以外に、季節の変化の目安とする特定の日の総称です。
他にも節分・入梅・半夏生・二百十日・土用・彼岸などがあります。

立春から数えて88日目をいいます。
八十八という字を組み合わせると「米」という字になることから、
この日は農業に従事する人にとっては特別重要な日とされてきました。
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