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第88回選抜高校野球決勝は智弁学園 vs 高松商

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もうすぐ決勝戦始まります。
どちらを応援しているわけではないけれど、ちょっと気になる。



(奈良)智弁学園 2年ぶり10度目の出場
甲子園での最高成績はベスト4
空振りをとれる最速145キロの球速を誇る近畿屈指の右腕ピッチャー、3年の村上頌樹選手(兵庫県南あわじ市立南淡中)


(香川)高松商業高校 20年ぶり26度目の出場
春は1924年第1回と1960年の2度優勝
浦大輝投手(高松市 高松北中)は、最速141キロの本格派で球質の重さとコントロールの良さにプロも注目


高松商業といえば、私がちょうど高校生だった頃強かった記憶があります。
あの強豪だったPLとも対戦してました。

1970年(S45)第52回【準決勝】PL学園 16-5 高松商

なんで覚えているかというと、たまたま幼稚園から中3までずっと同じクラスだった同級生がPL行って野球部にいたから。

彼は翌年1971年(S46)第53回に出場しましたが、おしくも1回戦敗退

PL学園 3-8 郡山

その記憶を確かめるため、PLの野球部の歴史見たら

PL17期生(1971年)夏の甲子園
全国高等学校野球選手権大会メンバー
8番センター 玉井基文君

ちゃんと掲載されてました。

今年の花見は佐保川で満喫

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日曜日に行こうと予定してたけど、天気予報では今日というので急遽変更。
暑くなく寒くなくいいお天気でいい花見ができました。

朝9時過ぎに守口市駅を出発し、近鉄奈良線新大宮ついたのが10時前。
家に帰るまで約10時間、15km余りを歩いて22,971歩。

平城宮跡の東側かつての西の京散策は想像以上によかった。

花見以外の目的の一つは、くるみの木レストランでランチ、
在原業平の不退寺で聖観音とレンギョウ、海龍王寺のユキヤナギ、
狭岡神社、奈良豆比古神社参拝と実り多いものでした。


春爛漫を彩る佐保路で見た花々

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ウワナベ古墳南側の佐保路で見かけた桜






不退寺のレンギョウ



JR大和路線を跨ぐ歴史の路






海龍王寺のユキヤナギ




レストランくるみの木入り口でラフランスと名札ぶら下がってました






立派なお屋敷の中のミモザ



源平咲きが見事



これも白と紫混じってる






かつて奈良ドリームランドは廃墟になってて残ってた。

道端に野いちごの花




文楽初観劇、人生最初で最後になるかな

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午後4時開演の第2部の切符あるねんけど、どう?
って誘ってもらって未だかつて見たことないので喜んで受けました。



何年か前に橋下氏が府知事か市長どちらの時か忘れましたが、補助金カットですったもんだしてました。

国立文楽劇場は日本橋にあり、家から30ふんちょっとで行けます。
でも行ったことなかった。




通し狂言 妹背山婦女庭訓
第2部は 午後4時から午後8:50まで。
なんちゅう長さ!






一幕だけ見るという切符もあるのですね。
この金額ならお手ごろに体験出来ます。
ハマれば通しで観ればいい。



若かりし頃、地唄三味線を5年ほど習ってたので、素晴らしいのはよくわかりました。

お席が11列目だったから人形の動きは大体分かる感じ。

私的には突っ込みどころ満載で、微妙。
どっぷり感極まるということはなかった。


すでに2時間15分が過ぎて、幕間の幕の内弁当を食べずに外へ出た。






インテリジェンス無いなぁ~と
鉄板焼きにビールで乾杯 (≧∇≦)

人気あるのわかったカフェ くるみの木

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前日に電話してランチ二人分取り置き依頼しましたが、席と時間の予約はできません。
午前11:30から開業で食事できます。
その1時間前に から入口で予約表に名前書けて、先着順に案内されます。

近鉄新大宮駅に着いたのが10時前。
線路沿いに少し戻り佐保川の桜を眺める。



土手道を歩いていると佐保川小学校で桜祭りを行ってました。
ブラスバンドの演奏や地域の人々の縁日状態。
解放された小学校校庭は賑やかでした。


そこから北上してくるみの木に到着したのが10:30
予約表ではすでに23番目。
一回目の案内では9~15組程度、ということは12時までに席につけない。

待ち時間にあたりを散策し神社仏閣参拝し、
再び戻ってきて線路踏切越しに撮影





時間は13:08
すでに呼ばれた後で最後に回されたかと思いきや、23番目ということですぐ案内されて席につけた。



とりあえずビールで乾杯





野菜中心のメニューでコーヒーかリンゴジュースがついて1,620円。
お手ごろ価格といい女子好み、人気あるの納得できます。
また行きたいと思いましたもん。

創業1984年というとすでに30年越してる。
カフェの先駆けですね~

ビールもグラス一杯で我慢して、後半ウォークも頑張りました。



マイグーグルマップでスポットを記しできたけど、
徒歩ルートの線描きうまくいかず、
さらにどうしたらブログにアップできるのか?

デジタル地図を如何に自由自在につかいこなせるか、まだまだ時間かかりそう。

花を楽しむ園芸種 花桃

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佐保川の桜並木で見かけた桃色の花。

一応持って行ってたデジカメ画像を確認したら写ってました。
あとの処理が楽なのでついついスマホで撮影しますが、狭岡(さおか)神社あたりまでデジカメも併用してました。






そめいよしのの歴史はまだ新しいですから、佐保川の桜並木も幹の大きさから見て戦後でしょうか?
となると、佐保姫がいた頃は桃の花を眺めていたかも。


春の苑 くれない匂ふ 桃の花
下照る道に いで立つ をとめ
   大伴家持


縄文時代から栽培されているという桃。

実が赤いところから「もえみ(燃実)」が変化して「もも」になる。

中国から伝わった「桃」の字の「兆」は、妊娠の兆し を意味することから
桃が「女性」や「ひな祭り」につながります。

桃から生まれた「桃太郎」の昔話も古くからあり
桃の木は万葉の頃から霊力のある木とされてきたようです。


法蓮町で見かけた民家の源平咲きも桃の花ですね。


枝に沿ってびっしりと花をつける
幹には桜のような横線が入っている

ふつう町でみかける花桃は、花を鑑賞する目的の園芸品種ですって。

食用の実桃と、花を楽しむための園芸種の花桃の2種類あるそうです。

花桃 
・薔薇科
・学名 Prunus persica (ペルシャのサクラ属)
Prunus プラナス はラテン古名の plum(すもも)が語源

開花時期は、 3/10 ~ 4/末頃
桃の節句に添える桃の花は温室内で育てたもので、
屋外の桃の開花はもう少しあとになってから。



春の女神 佐保姫と狭岡(さおか)神社

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「さおか」と入力しても狭岡は出てこない。
今年になって初めて知った神社です。

たぶん初詣にサムハラ神社参拝した日記
2016-01-03 不思議の4文字 サムハラ
ココでいただいた吉田さんからのコメントの流れの中で知ったような。
探しても見つからず、コメント内容を再確認できませんでした。
もしこの記事ご覧になられたら、コミットしていただくとうれしいです。


狭岡神社を知ったその時、たいそう興味持ち調べました。
必ず近いうち、できたら春に行こうと思ってました。
当時は、佐保姫が春の女神とは知らず、直感です。

そしたらグッドタイミングで、桜の季節にJR大和路線乗ると車窓からの景色最高やねんという人がいました。
佐保川あたりの桜見ウォークしようとすぐに話がまとまったのです。

私は、桜も見たかったけど、この狭岡神社に行きたかったので。



実際、鳥居前に立って、祭神々のお名前みても、しらんなぁ~です。

一人で来てたらちょっと参道進むのが怖い感じ。

石段上がりだしてすぐに左手に開けたところがありました。









狭穂姫伝承地として、鏡池や石碑がありました。

法蓮佐保山の山腹ですが、かなり標高出てくるので見晴らしがいいです。



また続きの石段参道を上がると拝殿と本殿がありました。






この系図を見て思い出したことは、
吉田さんのコメントにあった
『大年神と天知迦流美豆比売の間の子』




狭岡由緒記によれば
「本狭岡神社は霊亀2年(715)藤原不比等が国家鎮護・藤原氏繁栄のため、勅許により己の邸宅佐保殿の丘上に天神八座を奉祀して崇拝した。
これが佐保丘天神・狭穂岡天神・狭加岡天神となって、今の狭岡神社になった。
次いで、藤原不比等は河内の国枚岡より藤原氏の祖神である春日大明神を、大和国奈良の御蓋山へ移され、斉祀した。これが今の春日神社である。
それ以来、国政の大事や氏神春日詣りには、藤原一門がこの佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎して、日の出を待って国政に掌り、春日社詣をした。」と古事に出ている。



ほかに目に留まったものは







平城京の一条南大路が現在の一条通ですが、東の突き当りが東大寺の転害門で、ここから佐保路が始まるようです。

ここを起点として西に行けば、聖武天皇陵、興福院、狭岡神社、不退寺へと続きます。

標高100mほどの佐保山はなだらかな丘陵で、裾野の南側をながれるのが佐保川。
このあたりは今でも風光明媚でいいとこですが、奈良時代は貴族の邸宅地となる高級住宅街だったようです。

大伴氏邸宅、長屋王の別宅「作宝楼」、石上氏邸宅「芸亭」とか。
そして藤原氏邸宅がこのあたりにあったのですね。


「国政の大事や氏神春日詣りには、藤原一門がこの佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎して、日の出を待って国政に掌り、春日社詣をした」

何かスゴイとこみたいです。



不退寺へ向けて歩き出した途中で撮影。
奈良の町がよく見える見晴らしのいいとこでした。
深~い闇か封印とかがあるのかもしれないけど、よくわからなかった。

ここで暮らしたいと思った不退寺

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カフェレストランくるみの木の時間待ちで足を伸ばした。




不退寺
なんとけったいな名前のお寺なんでしょう。
開基が在原業平だったか紀貫之だったかさえもおぼろげな記憶。

最初は拝観料節約して南大門から覗くだけにしようかと思ってた。
それぐらいこじんまりした小さなお寺です。

同行の友人がせっかく来たから中に入らしてもらいましょと言うのに押し切られ、・・・







まず最初に見た石棺は、鎌を研いだあとが残ってる。
お寺に石棺あるのも珍しいけど、生活に役立ててるなんて、なんともほほえましいというか。

本堂で住職さんがお待ちで説明してくださるという。





残念ながら、中は撮影禁止。
格子は業平格子と名づけられているらしい、シンプルで粋です。

杮経といって、木簡にお経を書いて奉納したものが展示してありました。
なんで柿の木なんですかと質問して、
よく見てくださいよ、字画が違うでしょうとたしなめられました。

柿(かき)ではなくて、杮(こけら)はヒノキだそう。

聖観音像は、すぐ目の前で拝謁できました。
桂の木の一木造ですって。

画像もらってきました。




かつては「住持一世に一度開帳」と記録があるほどの秘仏で、そのためこの時代のものとしては彩色がみごとに残ります。

背丈190cm、頭の両側で結ばれたリボンが肩にかかって膝まで垂れています。

豊満な木造の仏像は珍しいそうです。
在原業平が伊勢神宮参詣の折、天照大神より神勅を受け自ら聖観音像を刻んだという説。
あるいは美男だった彼をモデルにしたもの、という説などなど。

左には阿保親王像が立派で、小野たかむら像に似た印象。
不退寺が阿保親王の菩提を弔うための寺院でした。

右には伊勢大神宮が祀られ、小浜のお水送りの神宮寺みたいでした。






靴を履くために腰かけた本堂から境内と入口の南大門を眺めていると、なんか突然懐かしくなりました。

なんかここで暮らしたいと思えてきたのです。
いや暮らしてたことがあったような錯覚を覚える。






祖父平城天皇が薬子の変のあと剃髪したのち隠棲した「萱の御所」であったと言われ、平城天皇の皇子阿保親王やその息子である業平もこの地に住んでいたと言われている。
仁明天皇の勅願を受け在原業平が開基した不退寺は、業平寺とも呼ばれる。

血筋からすれば非常に高貴な身分だった在原業平(825~880)
父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王。
父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。

薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。






ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは  小倉百人一首



業平は、平安初期の歌人、六歌仙・三十六歌仙の一人
歌風は情熱的で古今集仮名序に「心あまりて言葉たらず」と評された。

世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし  古今和歌集


この歌も有名ですね。


伊勢物語は、古くから在原業平の物語であるとみなされてきました。
色好みの典型として伝説化され、美女小野小町に対する美男の代表として後世の演劇・文芸類でもてはやされました。

しかし、自分が天皇になる目がないことはわかっていた。

こんなところから、不退寺 と名づけたのでしょうか。

正式名称 金龍山不退転法輪寺



伊勢物語の中で語られる『むかしをとこ』
栄華も権威も無いかわりに、平安と自由を謳歌している。
政治の中枢に入らずに済んだことを、逆に楽しんでいるかのよう。
決して不遇な人物像では無いと思えてきます。

詳しくは、聖観音画像も頂戴したブログ→こちら

拝観してよかった不退寺 でした

海龍王寺と藤原氏

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海龍王寺到着 12:28撮影
不退寺からぷらぷら歩いて25分ほどかかりました。






同行の友人はこちらの十一面観音さんが大好きで何度か拝観してるそうです。











海龍王寺のサイト 歴史と由来 より引用

「七一〇年(和銅三年)、平城京に都が移された時、藤原不比等が、ここに邸宅を構えるにあたり、付近一帯を治めている土師氏から土地を譲り受けた際、土師氏ゆかりの寺院がありましたが、寺院を取り壊さなかったので、邸宅の北東隅に残ることとなりました。
七二〇年(養老四年)、藤原不比等が亡くなり、娘である光明皇后が邸宅を相続したので、邸宅は皇后が起居する皇后宮となり、北東隅の寺院は『光明皇后宮内寺院』となりました。
七三一年(天平三年)、遣唐留学僧として唐に渡っていた玄の帰国をひかえ、無事に帰国を果たし、最新の仏教・仏法を我が国に伝えることを願われた光明皇后は『皇后宮内寺院』の伽藍を整えられます。隅寺(海龍王寺)としての歴史は、ここから始まりました。」

続きは→こちら


玄と海龍王寺より引用
「宮子は藤原不比等の娘で、聖武天皇出産後に療養していたのは藤原不比等邸内であった。そして海龍王寺の立地が藤原不比等邸の北東隅であることなどから海龍王寺が内道場であったのではないかとする説もある。そう信じたいがその確証は残念ながら無い。 」

「玄が太宰府で没してから丁度20年後の天平神護2年10月20日、この海龍王寺の毘沙門天像から仏舎利が出たと時の称徳天皇に報告される。
・・・中略・・・
こうした朝廷の政治に深く関わる事件がこの海龍王寺を舞台にして行われたことは、この海龍王寺が当時の朝廷にとっても何らかの特別の意味を持つ寺院として認められていたからであろう。 」

道鏡と海龍王寺 の中抜きした部分は →こちら



個人的には、こちら元藤原邸より、不退寺の元在原邸のほうが好き。

今日から1年生

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入学式は参列できませんでしたので画像送られてきました。

あっという間ですね。
自分がその年月老いたということ(-_-#)

奈良ドリームランド夢の跡

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学生時代に奈良ドリームランドで開催されたバトンコンテストに出場しテイク5という曲で踊った。
あのとき、近鉄奈良駅からバスで行った記憶はあるけど、地図で確認したことなかった。

この春、くるみの木一条店でお昼食べてから
西大寺の秋篠寺へ行くか、
奈良坂の奈良豆比古神社の大楠見に行くか。

相談の結果、興福院あたりから佐保山目指して歩いて、とりあえず奈良豆比古神社まで行けば帰路バスあるかもと決まった。









興福院、屋根の形とかからきっと尼寺ちゃう?
大当たりでしたけど、
なぜか こんぶいん と読むことも知らないぐらい何も知らなかった。
この日は中に入れなくて、そのままぐるっと周りの歴史道を歩く。
ところがこのあたりから勾配がきつくなり、現代の高級住宅街のようで大きなお屋敷が並んでいた。

それらが途切れたら、



へぇ~、奈良ドリームランドの跡地
めっちゃ驚いた、こんなとこにあったのね。

次の日、文楽誘ってくれた友人に、昨日一番印象残ったのはドリームランド跡地かもと話した。
というのは、彼女とは学生時代に一緒にテイク5踊った仲だったのです。

あそこ廃園なってから火葬場にする予定が反対でボツになったらしいと教えてくれた。

それで調べました!
廃園なったことは知ってたけど、詳しいいきさつは全く知らなかったから。




奈良ドリームランドは1961(昭和36)年に開園。
広さ約30ヘクタール(甲子園球場8個分)
昭和40年代の最盛期の入場者は年間約160万人に達したが、時代の流れの中で来場者が伸び悩み、2006(平成18)年8月末閉園。
所有する奈良市の管理運営会社「ドリームランド」が固定資産税を滞納したため、市が最初に土地を差し押さえたのは2009(H21)年。

遊具や建物は今も放置され廃虚と化していた。

2012(H24)年3月に、老朽化が進む市東山霊苑火葬場を移転させる方針を表明したが、地元住民らが約74,000人分の反対署名を提出するなどしたため、計画頓挫。

固定資産税の滞納額は約6億5千万円に上り、2013(H25)年4月に再び差し押さえ、2014年11月11日公売も買い手つかず。

跡地には約30の遊具のほか、立体駐車場など75の建物が放置されたままで、数億円とみられる撤去費用は落札者負担。
跡地は市街化調整区域や風致地区に指定されているため、建設できるのは医療施設や社会福祉施設、学校、スポーツ施設などに限られる。

広大な土地は権利関係も複雑で、跡地の一部は、国重要無形民俗文化財指定の「翁舞(おきなまい)」が伝わる奈良豆比古(づひこ)神社が所有。
同神社は賃料のほとんどが未払いになっているとして、同社に土地返還などを求める訴訟を奈良地裁に起こし、明け渡し完了まで年480万円の支払いを命じる判決が確定している。


2015年11月10日、税金滞納による差し押さえ物件として奈良市による2度目の再公売。
ビル賃貸業「SKハウジング」(大阪市北区)が最低入札価格(7億3千万円)で落札し、17日全額支払い正式に売却が決定した。


それから冬が過ぎ、春が巡り、またその廃墟で桜が咲いていたのでした。

黒髪山のクロカミは黒神で、闇淤加美(クラオカミ)?

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黒髪山稲荷神社です。
どこにあるかというと


グーグルマイマップで地図作成してみました→こちら

ちゃんとリンク開くかな・・・

ドリームランド跡地の東側塀に沿って上っていくと京都府に入るまで奈保山東陵があります。
元正天皇と元明天皇お2人の御陵です。
佐保ゴルフセンター手前で右に入る小道を進みますと、わりとすぐに石碑群が目に留まりました。






左側から、碑銘のない岩と小さな祠
「豊國大明神」と書かれた石碑
「石母」と書かれた石碑
「正一位黒住大明神」と書かれた石碑




右側に建物があり板塀前に「史跡大黒芝 佐保山西陵七ツ石」と書かれた案内板
左端には、聖武天皇生母藤原宮子后宮墓陵石とも書かれてあります。

とりあえず目に付くままに適当に撮影したけど、七つないやん。
ほかに「豊川大明神」と「玉井大明神」があるらしいけど記憶にない。
なんか長居したくない感じでそそくさと写真とった。




板塀に「史跡黒髪山」と、
和歌がひとつ 貼ってありました。

ぬば玉の 黒髪山の 山草に 小雨ふりしき しくしく 思ほゆ

柿本人麿呂の歌のようです。

先に進むと、その建物の先に赤い鳥居が見える。

ちょっと気持ち悪くて、鳥居の前でこんにちはだけ挨拶して撮影だけした。
きれいな光が入ってたので、念のためもう一枚。



やっぱり光が入ってるわと、前を歩く友人に追いついて、その画像を見せた。
ちゃんと挨拶せんと悪かったかなと気にしながらも先を急ぐ。




道路をまたぐ橋があって、黒髪橋。



僅か9年間の営業で1907年廃線になったかつての大仏鉄道の黒髪山トンネル跡は、昭和39年の道路拡張に伴い、山を切り開きトンネルは取り壊されたそうです。



さらに10分ほど歩いて、15:35 奈良豆比古神社到着。

今回、この記事を書くにあたり、調べていて、
黒髪山稲荷神社(奈良市奈良阪町2493)は、奈良豆比古神社の末社と知った。
20分ほど滞在して、奈良坂を下ろうとしたら、

正一位黒神大明神の道標見かけました。




黒髪山の名前の由来

開化天皇の孫に、狭穂彦と狭穂姫という兄妹がおられ、
妹の狭穂姫は、第十一代垂仁天皇の皇后になっておられた。
天皇位を狙っていた兄は妹に、謀判に荷担して天皇を殺すようそそのかすが、天皇を愛していた狭穂姫は天皇を殺すことが出来ず企てが露見する。
天皇は狭穂彦討伐の軍をおこし、狹穂姫は兄の軍に走る。
その時姫はみごもっていて、稲ゆぎ(稲を積んで造った応急の城)のなかで皇子を産まれた。
その皇子に誉津別命(ほむつわけのみこと)と命名して天皇方にお渡しし、
自らは追手から逃れるため、黒髪を切って山に埋め、古い衣をまとって逃去したという。
皇后が黒髪を埋めたところから、この山が黒髪山と呼ばれ、
稲城の古事から五穀の神「保食の神」を招請し、転じて稲荷になったと伝えられる。

悲劇の皇后も今は明るく五穀豊穰の神として、国や民衆を護ってくださっているのであろう。


佐賀県武雄市にも黒髪神社があって、

闇龗(おかみ)神(くらおかみのかみ)という雨をつかさどる神様を祀る由緒ある神社で、
「くろかみ」という名は「くらおかみ」に由来すると書かれてありました。

「クロカミの名前は岩上に鎮まる神の座、又、竜神であるクラオカミ神に由来する古語と考えられています」

【黒髪山の大蛇退治】の伝説も、水をつかさどる闇?(くらおかみ)という龍神信仰が変化したものと考えられます。


佐保山西陵はもともと黒髪山の西に。というブログには
「狭岡神社のさらに上の方に聖武天皇母藤原宮子佐保山西陵がある。・・・

聖武天皇生母藤原宮子后宮墓は、万葉集にも詠われた史跡「黒髪山」にある。
この辺一帯は佐保山地区古墳群と云われ、聖武天皇縁の御仁の陵が多く点在している。藤原宮子が眠る佐保山西陵はもともと黒髪山の西に位置していましたが奈良ドリームランドの開発により破壊されたようで、現在では「黒髪山」にその痕跡がある… 祠に納まったお地蔵さんの右隣が史跡「大黒芝」、佐保山西陵七ツ石、聖武天皇生母藤原宮子后宮墓稜石、中央に「石母」、右に「黒住大明神」、左に「豊國大明神」の大きな石碑が建っています。更にその右隣が、朱色の鳥居が12本建った「黒髪山稲荷神社」です。

黒髪山のクロカミは、「クラオカミ」の転じた言葉だとされます。「闇淤加美(くらおかみ)」とも書き、その別名を高龗神(たかおかみのかみ)と称します。龗(おかみ)とは龍神のことを意味し、「高」は山頂を、「闇(くら)」は谷をそれぞれ意味しています。
恵みの雨を降らし、長雨を止める神様として信仰されてきた龍神です。

シリウス神でもある…  」


大和眉間寺多宝塔というサイト
2007/01/04追加:吉田東伍「増補 大日本地名辞書」 より

佐保山西陵
文武皇后藤原宮子姫(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の西北|大黒芝と称する地蓋其火葬所にして又山陵ならん。〔陵墓一隅抄〕今稲荷山とも呼び、七疋狐又犬石と呼ぶ、隼人像石四個陵上に置かる、雍良峰陵の条を参考すべし。那富 (ナホ)山墓は聖武天皇の皇子基親王の葬所とす、近く南陵の西北に在り。(陵墓一隅抄)按に那富山は奈保山直山に同じ、即元明元正と其陵号を一にす、古へより佐保山奈保山又椎山は差別なかりしにや、不審。
椎岡(ナラヲカ)墓は藤原不比等の墓なり延喜式に見ゆ。眉間寺の西に在り佐保山西陵と相并ぶ、〔陵墓一隅抄京華要誌〕椎は楢と同訓なり。隅山(スミヤマ)墓は藤原房前の墓にて、今杉山と号し老松三株雑樹茂生す、椎岡同所なり、隅山墓類聚国史に見ゆ。〔県名勝志〕  



夕陽に映えるハナミズキ

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こんなに光を浴びて存在感ある姿みたの初めて。

ワシントンに桜を贈ったお礼にハナミズキが贈られたのが1915年。
あっという間に全国に広がりました。

折しも今日はアメリカのケリー国務長官が広島の原爆碑に献花されたそうです。

すずらんの毒 その2

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先週いただいたすずらんの鉢植え、
今朝水遣り後に見たら蕾が一つ開いてる。

うれしいけれど、このまま家に置かれへん。

なんでかというと猫がかじるからです。


かなり昔に記事エントリーしてます
2006-07-18 すずらんの毒


猫はお腹の調子を整えるために、葉を食べる習性があります。
毒を含む植物を食べて以前、ギズモが吐いてた話を書きました。

時には中毒症状がひどいと死に至ることもあるそうです。
コンバラトキシンという有毒成分は、猫や動物にとってはほんの僅かでも致死量となるらしい。

七重八重 花は咲けども 山吹の

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山吹が咲き始めました。
山吹は「晩春」の季語で、初夏も間近に迫っている頃に使うそうです。

ほろほろと 山吹散るか 滝の音  松尾芭蕉


山吹の花びらは単弁(5枚)と八重があり、八重咲きには実は出来ません。

タイトルの歌は、俳句ではなくて続きがあります。

七重八重 花は咲けども 山吹の 
実のひとつだに なきぞ悲しき
  古歌『後拾遺集』雑

太田道灌が鷹狩に出て雨に遭い、農家で蓑を借りようとしたとき、若い女に山吹を差し出された。
『七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき』という古歌(『後拾遺集』雑)の意だと後で知り、無学を恥じ以後歌の道に励んだという逸話
太田道灌の山吹伝説


山吹 バラ科ヤマブキ属
学名は「Kerria japonica」
英語名は「Japanese kerria」

日本固有の植物なので、japonica
Kerria は南アジアや極東の植物を採集した英国の園芸家 William Kerr(1814年没)を記念しての命名





もう7年も前になりますが、たまたま訪れた中宮寺は山吹が咲き乱れていました。




本堂を取り囲むように配置された植え込みに山吹が咲きこぼれる4月の中頃
本堂如意輪観世音菩薩の御前で献茶式ならびに山吹茶会が催されます。
たまたまその日だったようで、和装姿の女性がきらびやかでした。

2009-04-20 世界三大微笑のひとつ中宮寺・半跏思惟像



奈良豆比古神社の樟の巨樹

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樹高30m、樹齢千年を超えると書いてありました。

本殿裏の窪地の少し下がったところにはえています。
境内で掃除されてた翁から、この神社創建時に植えられたと聞きました。











前行った時は下まで降りる時間なかったけど
先週はじっくり眺めてきました。
境内にありご神気も高いです。
巨樹好きなら是非 (^_^)☆



熊本城のしゃちほこ落ちて

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昨夜からの熊本地震、甚大な被害のようで、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く余震おさまり地震収束して欲しいです。
元の生活に復興されるまで大変なことと思いました。

今朝TV画面で見た熊本城です。
天守閣の屋根のしゃちほこなくなってました。

しゃちほこ って漢字で書くと 鯱

魚偏に虎って書くのですね。

頭は竜のようで背上に鋭い刺を持つ想像上の海獣、水竜らしいです。
しゃちほこがいるところが水面だと考えると、
お城は水中=火事にならないという防火のおまじない。

 詳しくは→シャチホコの謎



上空からの動画ニュースでも見ました。
石垣の崩れなどリポートされてました。


熊本城へ行ったのは、2008年晩春。
その折に聞いた、加藤清正公が熊本城築城時にお手植えされた銀杏の木の言い伝えを思い出しました。

そのときの記録は→ 2008-05-28 400円

緊急自動車がどんどん追い抜いてゆき

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昨日朝、中国道では九州へ応援に向かう緊急自動車が多数追い抜いて行った。

当地では大変な思いされてるのに
昨日から大枝神社地車隊の親睦旅行でした。
コメントお返事遅れます。


阿蘇神社楼門 倒壊を知り愕然

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昨日朝中国道を西へ走ってると雲の様子がいつもと違って見えました。



一定方向の筋のような雲が、勝央サービスエリアでは乱舞しながら一つの場所に収束して見えました。

午後2時過ぎにやっと三徳山に到着。
22名と幼児1名参加の地車隊ご一行さまは老若男女さまざまでした。

三徳山の投入堂参拝はたいそうきつい登山的参道とききます。
結局7名だけが登ることになり、とてもいい体験できました。
詳細レポートはまた後ほどに、

夕方宿に着いて宴席終えてから、
めねふねさんのコメントで阿蘇神社に大きな被害出てたことを知りました。

今晩帰宅して画像探してきました。


あまりにひどい倒壊ぶりに茫然自失、熊本城もさらに酷いことになっててショックです。

2011年秋 阿蘇を巡り、阿蘇神社参拝しました。
列島をはう龍神 阿蘇聖線




今日は朝方で雨が上がり、朝ごはん会場から虹が見えてました。
そのあとは想定外の上天気。
雲ひとつない青空だったのに、帰路近畿道で見た夕日と一筋の雲。


美しい夕焼けでしたが、なんとも不思議な形の雲。
まるでツチノコみたい。



阿蘇神社も熊本城もその地を護るため、率先して最前線で身を呈されたのかな。

明日から旅行記書かせてもらいます。

犬挟峠と人形峠、それぞれの伝承

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中国道から米子自動車道に入り、湯原ICで降りて、国道313号線経由。
やっと昼食場所となる道の駅「犬挟」に到着したのが12時半ごろ。

地図見てて「犬挟」をなんと読むんだろうとひとしきり話題になった。
看板のふりがな見てやっと判明。



その後も、車中で何度も、なんて読むのクイズで盛り上がった。


鳥取県の関金町にあるが、岡山県に近いので岡山県真庭市と共同で営業している日本でも珍しい経営形式の道の駅だそうだ。
関金わさびが、生粋の国産わさびとして有名らしく、生わさびも販売されてた。

地車隊の旅行では出発前に旅行費用を渡しているので、行き当たりばったりの店で一人千円札が配られ自由昼食となる。
足りない場合は自分で補充し、余ればおつりは好きに使ってもいい。

ココでは蕎麦とわさびやろうと、選んだ昼食は


とろろわさび丼とざるそば、大正解だった。
850円ぐらいで、おつりはもらった^^


犬挟峠は、標高313m。
国道313号線が、鳥取県中部の倉吉市関金町から岡山県真庭市へ抜ける主要道路となっています。
その犬挟峠の国道沿いに平成10(1998)年8月8日
道の駅犬挟(いぬばさり)オープン。


なんかけったいな地名にはワケがある。
この犬挟の由来は何ですかと尋ねると、プリントした紙をくださった

1)鎌倉時代に後醍醐天皇が北条方に追われて通ったことで、蒜山地方ではこの峠を「院走り峠」と呼び、「いんばしり」が「いんばさり」となり「いぬばさり」となったという説
2)4世紀ごろ、古墳時代に日本武尊が西国平定のため国境の矢筈ヶ山(やはずがせん:標高1359m、大山の北東に位置する)から「この矢のとどく限りの敵すべて従え」と言って矢を討ったところ、これが峠にささったことから「矢ばささり」となり、これが変化して「犬挟」となったという説
3)犬でも狭い道だから「犬挟」となったという説
4)狭くて急な峠で犬すら逃げる「犬ば去り」から「犬挟」となったという説


この犬挟峠は、すでに奈良時代には、因幡国の智頭と播磨国の佐用を結ぶ志戸坂峠とともに、小鴨川上流から蒜山を越えて勝山に至る道として犬挟峠が拓かれていた
後に拓かれる他の陰陽連絡路と較べても道中が平坦で、峠の標高も低いことから盛んに利用されており、備中往来と呼ばれるようになった。



小中学校の時代、たしか中国山地にウラン鉱の人形峠習ったなと地図を確認した。




江戸時代になると、現在の国道179号の原型となる津山往来が整備されるようになり、田代越、人形仙越、打札越の3ルートがあった。
1912年(明治45年)に山陰本線が全通すると、山陰と山陽の往来の手段は鉄道が主流になり、これらの峠越えルートは廃れてしまった。

ところが、太平洋戦争後の1954年(昭和29)天神川本流や三徳川の上流域でウラン鉱が見つかるようになり、1955年、県道倉吉津山線の頂上付近でウラン鉱の露頭が発見された。
鉱山は「人形峠ウラン鉱」と命名され、旧来の打札越はこれ以来「人形峠」と呼ばれるようになった。
1960年代から1970年代にはウラン濃縮原型プラントも建設され採掘から精錬までの技術研究を行ったが、現在は採掘は中止されている。
ここで初めて製造した塩化ウラニルは茨城県の東海村の施設へ運ばれた。

1973年オイルショック期にはウランの取引価格は高騰のピークを迎えたが、1979年にアメリカで起きたスリーマイル島原子力発電所事故を契機に、ウランの国際的な取引価格は下落しピーク時の半分に。
この結果、経済的には国内でウランを精製するよりも、海外から輸入するほうが安価で安定していることから、人形峠でのウラン鉱の採掘は中止されることになった。
2001年にはウラン濃縮原型プラントも閉鎖。
しかし、人形峠など各地のウラン探鉱活動で生じた微量の放射性を帯びた残土は約45万立方メートル、約100万トン。
残土処理ですったもんだしたが、2008年に処理施設が完成。
搬出された残土は日本原子力研究開発機構によってレンガに加工され、2010年12月13日までに約145万個が製造され、一般向けには「人形峠製レンガ」として販売している。
レンガの放射線量は安全としており、文部科学省の新庁舎のほか、現在までに各地で花壇や歩道の整備などに使われている。



この峠に人形峠の化け物退治の伝説が残されていました。

峠にはかつて、巨大な蜘蛛がいて峠を越えようとする旅人を捕食していた。
あるとき、これを退治しようとするものがおり、藁人形の囮を峠に設置すると、大蜘蛛が囮に襲いかかった。
その隙に大蜘蛛を弓矢で射殺し見事に退治することができた。
以来、この峠を「人形峠」と呼ぶようになった。

あれあれ?
1955年
>旧来の打札越はこれ以来「人形峠」と呼ばれるようになった。

その巨大な蜘蛛の化け物退治の時代はいつなんだろう??
もしかなり昔からあるのなら、それは3つのルートのうちの人形仙越のほうかも。


このほか、人形峠環境技術センターのホームページでは異説が2つあると書かれてありました。

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