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不思議だなと思う心間違い探しが苦にならないこれがものの鑑定に役立ちます

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    質屋組合の長門周遊の旅 送られてきました
    ホテルの夜のシーンが暗かったのを
    印刷される前に無断で明るくされたようです。

    そのためすべての画像が少しづつ明るくなってる。
    いらんことしてくれてガッカリ(ーー;)


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    紅葉もきれいでしたし、黄不動尊もすばらしかったけど、
    一番印象に残ったのが宝物殿でみた訶梨帝母倚像でした。
    撮影は禁止ですのでネットで拾ってきました。
    難しい読み方は、見学してるときにメモしてきました。
    かりていもいぞう と読みます。

    右手にザクロを持ち、左手に幼児を抱いて、半跏し右足を踏み下げています。
    鎌倉時代13世紀前半の木造(像高43.9cm)で重要文化財です。

    時間をまき戻し、三井寺の最初からご案内しますと、

    駅から5分ちょっと歩くと


    先にアップしたスマホ撮影したマンホール画像はこの三尾神社右手の道です。



       兎の宮、三尾神社 →こちら

    境内右から 西国33箇所の観音堂へ上がる石段参道





    琵琶湖がきれいに見晴るかせました。

    朱印賜ったことだし、それでは黄不動尊さまを拝みに行きましょう。





    三井寺の広報僧「べんべん」に出会いました。

    背中に亀の甲羅背負ってるやん、と調べてみると
    弁慶の引きずり鐘と千団子祭りの亀をモチーフにしたキャラクターで、特技はほら貝を吹くこと、だそうです。


    そのときは何も知らず、境内でお団子買いました。


    千団子って書いてあります。

    千団子祭りは子どもの成長を祈る祭りとして、広く親しまれている三井寺の祭礼。
    広い境内の中に、市指定文化財に指定されている護法善神堂(ごほうぜんじんどう)がある。
    そこの守護神である鬼子母神は千人の子どもを持ちながら、人間の子どもを食べる悪い神だったが、お釈迦様に説かれ、出産、育児の神として子どもたちを守る神となったと伝えられている。
    その子どもたちに千個の団子を供えることから「千団子祭り」と呼ばれ、600年以上続く伝統的な行事となっている。
    千団子社の前の池では、子どもの健やかな成長を願って「亀の放生」が行われ
    亀の甲羅に子どもの名前と年齢を書き、その亀を、祈祷後、池に放つというもの。

    これで最初の訶梨帝母倚像(かりていもいぞう)とつながりました!

    護法善神堂の左脇に安置されている像だったのでした。

    訶梨帝は鬼子母神とも呼ばれ、釈迦によって改心し子供の守護神となった女神。
    園城寺では、智証大師の護法神として特に篤い信仰を集めています。

    一番心象に残った仏像と、お団子も美味しかったし、ね。

    黄不動尊に会いに行ったので、次回に続きます

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    三井寺の 門たたかばや けふの月

    御影石に榊莫山氏 揮毫の石碑と紅葉が美しかった。
    三井寺金堂正面左手の蓮池の前にありました。
    芭蕉、元禄4年(1691)48歳の作で、芭蕉没後300年を記念して平成6年に建立されました。

    どういう意味か検索してたら、あるブログには

    「三井寺」は、大津にある園城寺(おんじょうじ)の通称である。
    仲秋名月の夜のことを扱った謡曲『三井寺』の舞台でもある。
    謡曲は、当時、俳人たちの常識でありこの芭蕉の句も謡曲『三井寺』を踏まえている。




    唐院大師堂で黄不動尊を特別拝観



    映画「るろうに剣心」のロケ地となった橋も渡り、
    けっこう疲れたし境内は広いし、出口はどこだろうとお坊さんにお尋ねしました。
    やっぱり三井寺来て、金堂拝まずに帰るのもどうかと思われた。




    弁慶の引き摺り鐘も見ました。
    俵藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したんだと。
    その後、山門(比叡山)との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げてついてみると、
    いのーいのー(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は怒って鐘を谷へ投げ捨てた。
    その時のものと思われる傷跡がのこってるといわれます。

    藤原秀郷は、平安時代中期の貴族・武将で、近江三上山の百足退治の伝説で有名。
    出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、「実際には下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もある。





    三井寺の公式サイトより
    本尊は金堂にお祀りする弥勒さまです。
    このご本尊は今から千三百年余り前、三井寺が創建された時に 天武天皇から賜わったと伝えられていますが、 絶対の秘仏となっているため、この仏様を拝したひとは誰もいません。



    金堂の前の石灯篭は、立札にいわれが書かれています。
    堂前灯籠 天智天皇が大化改新で曽我氏一族を誅した罪障消滅のため、自らの左薬指を切ってこの台座の下に収められたと伝わる。
    そのため別名「園城寺金堂無名指灯篭」と呼ばれる。

    天武天皇の勅願により建立され「園城寺(おんじょうじ)」と称したはずなのに、
    天武以前の天智天皇の薬指とは、これいかに?




    近藤の左側に閼伽井屋があり、水の湧き上がる音がボコボコと聞こえました。
    天智天皇、天武天皇、持統天皇の三天皇が産湯に用いた泉、三井の霊泉とされます。
    御井(みい)の寺と呼ばれていたことから三井寺と親しまれています。

    三人の天皇は、三人とも琵琶湖のこのあたりでお生まれになり産湯を使われたなんて、ありえへん?
    いったい何を物語りたい逸話としているのでしょう。


    この閼伽井屋の正面には左甚五郎作と伝わる龍彫り物があります。
    むかしこの龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたため、困った甚五郎が龍の目玉に五寸釘を打ち込みしずめたんだと。

    左甚五郎は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人、
    ということは、この建物覆いは江戸時代に建てられてたんだ。



    貞観元年(859年)園城寺初代長吏となった智証大師が感得されたのが黄不動尊です。
    今年はその智証大師(814-891) 生誕1200年なんだそうです。




    三井の晩鐘は、近江八景の一つとして有名です。
    宇治の平等院、高尾の神護寺とともに日本三銘鐘に数えられ、
    荘厳な音色は日本の残したい音風景百選にも選ばれているそうです。



    広い境内を1時間半ほどウロウロして三井寺駅に戻った。


    続いて、日吉大社のある坂本へ。




    ★追記 謡曲『三井寺』とは 三井寺公式サイトより

    能楽にうたわれる謡曲に、『三井寺』という狂女物の名作があります。 世阿弥の作とも伝えられています。 駿河国(静岡県)清見ケ関の女が、子買いにさらわれたわが子を捜し訪ねて、 京都・清水寺参籠の霊夢で三井寺へ参れと告げられます。
    時まさに中秋の名月。三井寺では、住僧が弟子・千満らを連れて講堂の庭での月見に出ます。 そこへ、子を失った哀しみに心を乱した女が到って、名月に浮かれ、 龍宮から持ち帰ったと伝わる名鐘を、龍女成仏にあやかって自分も撞(つ)きたいと近づきます。

    住僧は制止しますが、狂女は中国の古詩を持ちだして、詩聖でさえ、名月に心を狂わせて、 高楼に登り鐘を撞くというのに、ましてや狂女の私がと、鐘を撞き、舞います。 「初夜(=宵)の鐘を撞く時は諸行無常と響くなり 後夜(ごや)(=深夜)の鐘を撞く時は是生(ぜしょう)滅法と響くなり 晨朝(じんじょう)(=明け方)の響きは生滅滅己(しょうめつめつに) 入相(いりあい)(=夕暮れ)は寂滅為楽と響きて」。

    「諸行無常」と響く初夜の鐘(三井の晩鐘)

    弟子の千満に促されて住僧は、狂女に素姓を尋ねます。 千満・狂女の応対があって、狂女は千満がわが子と知り、母子(ははこ)は再会。めでたし、めでたし。 「かくて伴なひ立ち帰り親子の契り尽きせずも富貴の家となりにけりげに ありがたき孝行の威徳ぞめでたかりける」。

    能「三井寺」

    江戸時代も文化隆盛の頃、武士は謡(うたい)を、町人は浄瑠璃をたしなむことをステータスとしました。


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    私の左手の薬指は人差し指より少し短い。
    右手は薬指のほうが長いです。
    指の長さを今までじっくりと眺め比較したことありませんでした。

    あら~、甲側から見たら薬指が長いわ(*^^*)

    大相撲の力士、十両から横綱まで約100枚の手形を調査されたら、
    横綱、大関の上位力士の方が明らかに薬指が長いそうです。

    その他に、サッカーやラグビーの選手、オーケストラの演奏者にも薬指が長い人が多いらしいです。

    親指と長い薬指と小指の3点でしっかり握れば力が入るのかも。


    なんでこんなことに興味持ったかというと、
    先の記事、三井寺の不思議な伝承の一つ、
    金堂の堂前灯籠は、別名「園城寺金堂無名指灯篭」と呼ばれる。
    天智天皇が大化改新で曽我氏一族を誅した罪障消滅のため、自らの左薬指を切ってこの台座の下に収められたと伝わる。


    なんとも奇妙で不気味な伝承だと思いました。
    左手薬指は結婚指輪をはめる指ぐらいにしか思ってませんでしたから。

    ちょっと調べてみました。

    古代エジプトから、薬指からの特別な静脈が直接心臓、つまり心と繋がっていると信じられていたんだと。

    婚約や結婚指輪を薬指にはめるのは、そうした誠意をつなぐ効力を高めるとか、誓約みたいな感じでしょうか。

    ケルトの森 というサイトでは、次のように書かれています。
    古代の人は祈祷やお炊き上げをすることで病の回復を祈りましたが、
    祈祷やお炊き上げというのも魔法の一種であり、また医学の1つでした。
    体の中心となる心臓が医療の基本ですから
    心臓に直結し、魔力を持つ薬指は大切なものだったのです。


    薬指、薬師(くすし)指は、薬師如来が印を結ぶのに右の第四指を曲げている事に由来するとの説。
    この呼び名より、この指で薬を塗るなどの俗習が広まったともされるようです。


    薬指には呼び名がいろいろあって、お姉さん指に、紅さし指は知ってました。

    そして、今回問題となった「名無し指」

    日本語:薬指、薬師指、名無し指、紅差し指、紅付け指、環指、お姉さん指
    中国語:無名指
    モンゴル語:nereguy hurgan(名無し指)
    フィンランド語:nimeton sormi(名無し指)
    ブルガリア語:benzimen pryst(名無し指)

    英語:ring finger(指輪の指)、third finger(3番目の指)
    ドイツ語 :ring finger(指輪の指)、herz finger(心臓の指)、arzt finger(医者の指)
    ラテン語:digitus annularis(指輪の指)、digitus medio proximus(中の隣の指)、digitus medicinalis(医者の指)


    中国、フィンランド、ブルガリヤも同じように名無し指と呼ばれているのが不思議。


    もうちょっと調べてみよう~


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    ハナゴンドウクジラの白いのが見つかったそうです。

    昨夕は 串本の伊勢エビと香住のズワイガニが映ってました。

    白いマグロは先週だったかな?

    白い生き物は神の使いというけれど
    何を伝えに次々と出現するのでしょう

    9月27日に越前大野の神社でみかけた白猫さんは




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    京阪大津線の終点坂本駅からすぐ近くに観光案内所がありました。
    地図でももらおうと立ち寄ったら、ボランテイアガイドさんが一緒に廻りませんかと声かけて下さった。

    全然知らない人4名がガイドさんに案内されて、坂本の里坊の石積みから見ていきました。
    里坊というのは、比叡山で修行され歳を重ねた老僧が、坂本の里に降りて住まわれた隠居所ことで、このシーズンあちこちで公開されてました。





    穴太積みは、「石の一つひとつが収まるべき所に収まる」という石垣で有名です。
    穴太衆とかよく聞くので一度見てみたいと思ってました。




    公開里坊は拝観料かかりますので、一つだけ入りました。




    案内してもらってる4名のうち一人の方はすぐご近所にお住いの方で、
    戒蔵院の毘沙門天さんは滅多に公開されないので、この機会に行きたいと言われたから。
    私は何の予備知識もないので、言われるまま付いていきました。





    その戒像院横に、日吉東照宮がありました。



    この鳥居から琵琶湖越しに三上山が真正面に見えます。



    この画像はスマホの方が綺麗に写ってます。


    スマホのカメラ、遠くもちゃんと写ってて、スゴイね。



    日吉東照宮が最初にできて、日光はその後です。
    明智光秀が本能寺の変のあと生き延びて比叡山に匿われて後、天海僧正になったという説があります。
    比叡山には、光秀が没したとされる年数よりのちの時代に、寄進が光秀と刻れた石塔ものこされてるとか。
    そして、天海僧正は慈眼大師ですが、光秀も院号は慈眼 。

    天海僧正は、徳川家康に協力して江戸の町を築いていきますが、結界のはり方はすばらしいものであったらしい。
    三代家光の頃の春日局が家康に重用されたのも、光秀の家来斉藤家の娘だったからだとか。


    鳥居から真正面に三上山が見える雄大な景色は、いろんなことを知ってる人がここに祀ったんだろうと思えました。




    いよいよ、坂本で一番行きたかった日吉大社へ。






    続く


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    日吉大社について以前調べたときも、行ったことないからよくわからなかった。
    今回実際足を運んでみてから調べても私の知識ではよく理解できなかった。
    まず、あまりの広さにびっくりした。
    どこかのサイトに甲子園球場11個分と書かれてあったような。
    1時間程度ではとても周りきれないし、何も知らずに行ったら、半分で納得して帰ってしまいそうだった。



    日吉大社には東西に二つの本宮があり、社格としては東が二宮で、西が一宮らしい。

    ボランティアガイドさんの案内で、まず向かった先は西本宮


    この楼門の屋根軒下にお猿さんがいます。



    神猿と書いて、まさるさん は山王神使です。
    東本宮の門にはおられませんでした。

    拝殿の後ろに本殿があります。


    西本宮 (旧称 大宮 又は大比叡)
    祭神-大己貴神(オオナムチ) 別名 大国主神・大物主神

    東本宮のオオヤマクヒが、古来からの神奈備信仰・磐座信仰を引き継いた自然発生的なものだったのに対して、西本宮のオオナムチは人為的に勧請された神である。
    天智天皇が大津に都を築かれた時に三輪山のオオナムチを祀られたのだそうです。


    背後に回ってみて、珍しい社殿様式を『日吉造』(聖帝造ともいう)
    社殿背後には庇と下陣がないので、横から見ると屋根が切り取られたよう。

    二階建てのような2層構造です。
    上の本殿で神祇祭祀、床下の下殿で仏教法会がおこなわれていた。
    明治初年の神仏分離以降は、原則として下殿祭祀はおこなわれていないそうです。

    戦後の宗教政策の変更により徐々に仏教色が戻りつつあるようです。
    4月14日の山王祭や5月26日の山王礼拝講では、日吉大社宮司が祝詞を奏上したあと、比叡山僧侶による読経が行われる。




    以前、山法師について記事にしたことがあります→2012-01-31 天下三不如意

    「加茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞ我が心にかなわぬもの」
    平清盛の時代、白河法皇は「天下三不如意」として嘆いています。


    比叡山の僧兵は山法師と呼ばれていました。
    自分達の主張が通らないと、日吉大社のみこしを担ぎ出し一旦延暦寺に担ぎ上げ、そこから都に下りて朝廷に直訴する。
    度を超して物議をかもすことも度々あったことから、最後は織田信長の比叡山焼き討ちにつながります。

    八王子宮(現牛尾宮)の神輿だけ、屋根の先にとまった鳥がスズメだと



    何でか理由聞いたのにどうしても思い出せない。
    参詣したのが11/23、やはり1週間経過すると忘却のかなたですね。

    ちょっと休憩して調べます。


    追記

    日吉大社の 福楽寿寿米 (ふくらすずめ)

    山王総本宮 日吉大社では、幸福で楽しいことを雀のふっくらとした姿に求め、
    千有余年も昔から「福楽寿寿米」と名付けて珍重しています。
    山王祭では御子神の幸福を祈って、玩具としての「福楽寿寿米」が供えられています。

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    土曜日午後、突然、スマホに迷惑メール届きました。
    どう考えてもおかしな文体に内容。
    念のためショップへ行って確認したらやっぱり迷惑メール。

    とりあえず様子見ましょうということで、そのまま週末を過ごすも、
    30分に一度、ピポって着信音鳴るから夜中も仕事中も気が気がじゃあない。


    削除する前にアイパッド画面で撮影しました。

    午前中にまたショップへ行って、このメールをしばらく休止にした。
    普段はメッセージとGメールで事足りるから。
    主に、スマホ撮影画像をこのブログ投稿するのに画像送信アドレスとして使ってました。


    メールは使わない見れない設定にしてもらったというのに、受信音が鳴り続ける。
    設定してもらった午前11時前から3時間ほどで すでに30通も受信!
    さらに受信頻度が高くなり、30分に一度どころではない。

    サーバーにアドレスは生きてるからなんでしょうね。
    アカウントを削除したわけでななかったから。

    またまたショップへ行って、アドレス変更してもらうことにしました。
    PCでのアドレス変更と違って、なんかややこしそうで とても自分で設定できない。

    人騒がせな迷惑メールに振り回された日々から開放されて、今日は安眠できるかな。

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    10月後半、アメリカとイギリスが大寒波でスンゴイ積雪のニュース見てました。
    やっぱり日本にも来ましたね {(-_-)}

    今朝早朝の気象衛星の雲みてると、ホンマ寒そう。
    大陸から冷たい寒気が流れてきてます。
    そうした中で、朝鮮半島のかつての新羅あたりから、山口県の例のムカツク半島へ伸びた雲のない部分。
    まるで黒い蛇が、中国山地を超えて瀬戸内海のしまなみを渡り四国を縦断し太平洋へ抜けてます。

    空の雲、風の流れって不思議で見てて飽きませんね。

    24節気72侯で、12/2~6 は橘の実が色づく頃。
    酸味が強く生で食べるには適しない橘は、常緑樹のため永遠を表す縁起のいい植物とされます。
    家紋や勲章のデザインに用いられることも多いです。

    氏神さんの大枝神社は巴紋と橘紋二つあります。
    提灯や地車隊のTシャツに橘社紋が大きく描かれてて、なんで二つあるのか不思議に思ってます。

    日吉大社でもみかけましたので、後で画像貼りますね。

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    昨夜届いた寄植えキット作ってたら、
    ギズモは自分用のネコ草だと思い込んで食べだす始末。



    寝てる間に高い所へ避難させたけど



    見つかった(≧∇≦)

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    先月11/23にお参りして、12/1に西本宮だけ先に記事にしました。
    2014-12-01 日吉大社の西本宮のまさるさんと、etc

    そこで、猿は山王神使で 魔去る 勝る の マサルさん だと記しました。
    八王子宮(現牛尾宮)の神輿だけ、屋根の先にとまった鳥がスズメがなんでだったかなぁで終わってます。
    今日はその続きです。

    西本宮系はあとから祀られた国家を守るための神さまであるのに対し、
    東本宮系は元々この地に祀られていた神です。
    最初の画像は、東大宮(大山咋神和魂)を祀る本殿です。
    いつ見ても参拝の行列できてたのに驚きました。
    お正月の初詣の混雑でもないのに何をものがたるのだろう。

    この東本宮に来るまでにも数多くの境内社がありました。








    ボランティアガイドさんについてどちらも急ぎ足で参拝したので、
    社殿撮影するも中途半端なアングルばかりでお見せできるような画像ありませんでした。



    東本宮の楼門くぐる手前に、奥宮への石段がありました。
    山王祭のとき、この急な石段を神輿担いで走り降りてくるのだと聞きました。
    階段下の両側に牛尾宮・三宮宮両社の遙拝殿があり、石段上の両側に両社の御輿倉が建っています。




    撮影した画像なかったのでネットで拾ってきました。


    時間がなくて上に登ってませんので、以下画像ももらってきました。



    八王子山東麓に広がる古墳群に接するように東本宮神域があります。
    中心は『東本宮』と『樹下宮』、他に摂末社6社と霊泉1井。
    うしろの八王子山(牛尾山)に坐す山宮(牛尾宮・三宮)を遙拝するために山麓に設けられた里宮が本来の姿です。

       [里 宮]                [山 宮]
    東大宮(大山咋神和魂ニギミタマ)- 牛尾宮(大山咋神荒魂アラミタマ)
    樹下宮(鴨玉依姫和魂)     - 三宮宮(鴨玉依姫荒魂)

    牛尾宮の旧称が八王子宮で、ここの神輿屋根の先にとまった鳥がスズメだったのです。



    東本宮の御子神(賀茂別雷神)さまの玩具としてスズメの土鈴をお供えされます。


    幸福で楽しいことを、雀のふっくらした姿に求め千年以上前から珍重しているということです。

    ふくらすずめで検索すると、冬の寒いときのスズメは



    続いて、猿は


    息切れで、とりあえずここで休憩。

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    もう終わってしまってからの告知では意味ないんですけど、
    まぁ時代の流れというか、そういう意味も込めて記録残しておきます。

    娘のジュエリーブランドAOMが、先週終末3日間東京の神田で開催されたニュージュエリー展に出展させてもらってました。



    これらの画像は、東京で暮らしている姪、娘にとってはいとこのFacebookからもらってきました。


    差し入れ持って行ってくれて、さらにこのピアスお買い上げいただいたようで、ホンマありがとう。

    おかげさまで無事終了し、多くの方にご来場いただき大盛況だったようです。
    ありがたいことで感謝申し上げます。


    私の世代は少しまとまったお金があれば、金やプラチナを使ったいわゆる宝石ジュエリーを買うのが楽しみでした。

    就職して貯金した100万円、当時一番利息のよかった長銀リッチョー、5年おいてたらなんと利息が48万円!
    いい時代でした。
    この棚ぼたのような利息にさらに少し足してサファイヤのプラチナリングを買いました。
    誕生石だったし、お宝になると思ってたのです。

    身につけるのもほとんどないまま月日は流れダイヤを巻いたデザインは古臭いものに。
    15年ほど前に、カルティエタイプのシンプルなデザインにリフォーム。
    それもほとんど身につけないまま、同じ天秤座の娘へ。
    いまや、ニュージュエリーブランドの作り手として、そのプラチナリングはタンスの肥やしでしょう。

    いまやサファイアのあの程度の大きさでは、お宝にはなりません。
    プラチナリング枠はズッシリとした重みありました。
    しかし10gはあったとしても、最初の購入価格の10/1 以下、悲しいなぁ (≧∇≦)

    このサファイヤだけでなく、同じ思いされてる方は多いです。
    宝石貴金属の買取店として目のあたりに見てきています。
    体験上もコンテンポラリージュエリーへの流れは納得のいくものです。

    ニュージュエリー → こちら
    すでに終了してますが、ご参考までに。

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    今夕五時頃の空一面うろこ雲で埋め尽くされてました。

    明日は雨?
    かどうかわかりませんが大気は不安定なようです。

    週末にはまた大寒波襲来するそうです。
    くれぐれもご用心ください、
    といっても何の準備しましょう。

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    日吉大社の猿神さんについて書く前に、もうひとつ気になることがあったので、さきにそちらから。



    東本宮は、上の境内図では右下に描かれています。

    以前、大阪市浪速区にある大国神社は敷津松之宮も同じ場所にあり境内を共有する相殿で、境内で参道がクロスしてて珍しい と記事にしました。
     2009-01-11 えべっさんと大黒さん

    この日吉大社の東本宮も同じ状態でした。
    ボランティアガイドさんについていくのが必死で、お参りもそこそこに。
    とてもちゃんと撮影している余裕なかったので、画像ひろってきました。



    正面の建物が、東本宮の拝殿。
    左に樹下宮本殿、右に樹下宮の拝殿です。
    樹下宮(じゅげぐう)の神さまは、鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)


    今回、ガイドさんに案内されたおばちゃん4名は即席にできたグループで、そのうちのお一人はすぐご近所にお住まいだとか。
    ガイドさんとも顔なじみでローカルな話題に花咲いてました。

    そして歩きながら聞いたところによると、この樹下宮は社殿右下に井戸があり、お正月に初水を賜りにこられるそうだ。




    画像あるほうがわかりやすいので これらの画像ももらってきました。


    「日吉大社 お正月 若水」で検索して見つけたのは以下の文、
    詳しくは こちらのPDF 一部抜粋引用しますと
    「大津の日枝神社社中の樹下宮社殿下からは、今もこんこんと清水が湧き流れている。
    この宮こそ複雑化した日枝神社祭祀の最古の起源を示すものと、諸学者の見解は一致している。
    同じ地域に位置する園城寺が別名三井寺の名を有する所以は、
    三代にわたる天皇の産湯の水が境内にあるからといわれるが、後世の付会というべく、もっと率直に、三井は御井であって、この泉を神聖とした古代祭祀の跡をこの寺が継ぐものと考えたい。
    その泉は本堂すぐ西側、崖の際にあっていまなお冷水を湧き出している。」


    東本宮神域をもう一度整理すると
    八王子山東麓に広がる古墳群に接するように東本宮の神域がある。
    中心は、上七社に属する『東本宮』と『樹下宮』で他に摂末社6社と霊泉1井がある。
    現在、両社とも当神域内の社殿をもって本社としているが、
    西方に聳える八王子山(牛尾山)に坐す山宮(牛尾宮・三宮)を遙拝するために山麓に設けられた里宮が本来の姿である。


    それにしても、鴨玉依姫神を祀って、水が湧き出て、なんで樹下宮(じゅげぐう)なんだろう。

    気になって調べてみると、こんな説明見つけました→こちらのブログ

    「慶応4年(明治元年、1868)4月に樹下重国らが主導した廃仏毀釈で、重要な仏像・仏具は持出され徹底的に破壊されてしまった。
    十禅師を「樹下神社」と、廃仏毀釈で破壊したリーダー本人の苗字を残しているのだが、日吉大社の由緒にも、大津市教育委員会が設置した案内板の説明にも、どこにも「廃仏毀釈」や「樹下重国」の記載がないのが気になるところで、おそらくこのよう歴史は参拝者に知らせたくないということだろう」

    この廃仏毀釈による日吉大社での被害額は5~10億もいくそうです。
    樹下重国 で検索するといろいろわかりますよ。


    旧称の十禅師も変わったなじみのない名前です。
    1 知徳にすぐれた僧を10人選んで宮中の内道場に仕えさせたもの。内供奉(ないぐぶ)に任ぜられた。

    2 日吉(ひえ)山王七社権現の一。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を権現とみていう称。国常立尊(くにのとこたちのみこと)から数えて第10の神にあたり、地蔵菩薩の垂迹(すいじゃく)とされる。



    日吉大社より先に三井寺参拝しましたが、駅降りて最初に訪れたのが三尾神社でした。
    2014-11-25 三井寺のべんべんと 訶梨帝母倚像


    この三尾ってどこかで聞いたことあるけど、なんだったか思い出せませんでした。
    すると、今日の「このブログで人気のあるページ」のNo2に
    2013-11-10 蝉丸 猿丸 山の民? 

    そのコメント欄で吉田一氣さんがお寄せくださった文の中に、再発見!

    彦火々出見尊と豊玉姫は大津シノ宮で神上がられた、
    その大津シノ宮が三尾神社らしい→こちら


    自分の理解を超えているものは、脳もスルーしているようで
    それでいて奥底に記憶の片鱗として沈殿しているものなんですね。


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    豊臣秀吉は比叡山焼き討ち後の日吉大社の復興に力を入れました。
    幼名は日吉丸であだ名はサルでしたから。


    日吉大社の東本宮本殿左後ろに、大物忌神社があります。
    大山咋神のお父さんの大年神を祀っていると書かれてあります。
    その大年神のお姿は お猿さんのお顔で、山王曼荼羅にも大行事権現として描かれていると。




    西本殿の楼門右手には、


    お参りした時はちょうど前で猿回し大道芸の人だかりで見えませんでした。

    なんで猿の顔なんでしょう、なんかきっと意味がありそうな…

    大行事権現 また知らないお名前が出てきました。
    【大行事】とは
    1 大法会の際に指揮する僧。
    2 滋賀県日吉神社の山王二十一社の一。大行事権現。


    日吉大社の元旦早朝の5時から行なわれる「大戸開神事」には、
    京都の片山能太夫による「日吉の翁」が奉舞されるらしいです。


    さらに検索を重ねていくと、なんで猿かはわかりませんでしたが
    大行事水というのを発見。

    琵琶湖の考湖学 第2部29
    水の社「日吉大社」清らかな祈りの循環  より一部抜粋

    東本宮本殿の後ろには大山咋神の父神とも言われる大年神を祀る大物忌神社があり、この背面の山裾から大行事水(大物忌神社の旧称)と呼ばれる、清冽な清水が湧き出ています。
    大物忌神社本殿の周囲をよく観察すると、かつては、この大行事水を本殿の周囲に切られた石敷きの溝に引き込み、本殿を一周させていたことがわかります。
    大物忌神社を一周した水は一段下の東本宮に至り、本殿を一周した後、途中で「亀の井」と呼ばれる井戸の水をあわせ、下段にある樹下神社本殿に向かいます。
    樹下神社本殿の床下には「霊泉」と呼ばれる井戸があり、ここからあふれ出た水は、東本宮から流れてきた水と合わさり、樹下神社本殿を一周した後、比叡山から流れる大宮川に流れ込みます。
    <中略>
    地から湧き出る大行事水や霊泉の水。霊山比叡山から流れ下る大宮川の水。いずれも神聖この上ない水を、さらに、上七社の神々が清め、そして人々の住まう里に送り、さらに水の髪が住まう琵琶湖に返す。
    このような、水への信仰と祈りの神々により構成されているのが、日吉大社なのです。
    (財団法人滋賀県文化財保護協会 大沼芳幸)


    それらしき画像拝借してきました。
    今度はこういった観点で日吉大社再訪したいと思います。

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    カニ刺し、焼きガニ、甲羅焼き、カニ鍋、カニしゃぶ、天ぷらとフルコース、
    どれもみな美味しかったけど、やはりカニ味噌に熱燗入れて最高です。


    花咲ガニのカニしゃぶもやっぱり現地ならでは、思いっきり食べれました。

    しばやま荘さんの団体貸切プラン、一泊二日16,000に消費税と入湯税合わせて¥17430は格安でしょう。
    みなさん大満足でした。


    金曜朝市役所で期日前投票して、日曜から日本海の柴山港へ行ってきました。



    出口調査も初めて体験しホンマにやってるのがわかりました。

    12月中旬なら雪の心配ないだろうと企画した保護司研修旅行。
    ドンピシャで大雪が予想されどうする~~
    前日確認の電話したら、降ってますけど道路は閉鎖されてませんとのこと。

    新潟や北陸は大雪に見舞われたようですが、兵庫県北部豊岡や香住は日曜日降りませんでした。
    おかげで無事雪で足止め食うことなく無事帰ってこれました。

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  • 12/18/14--20:00: 冬の嵐と防災の心得

  • 夕方7時前のニュース明日の天気予報画面です。
    今日の大阪は今冬一番の寒さだと思います。
    冷蔵庫の中にいるような冷たさでした。
    北海道やあちこちで爆弾低気圧の被害出ているようですね。

    日曜日に宿泊した但馬地方、今夕すでに50cmぐらい積もってるようです。
    ほんの数日の差で、天気も災害遭遇も紙一重ですね。



    日本海の冬は厳しいに違いないから、カニ食べツアーを半年前に決める時、12月のクリスマス前なら大丈夫だろうと。
    幹事は旅が無事終了するまで気が気ではありません。

    刑務所見学を組み込むのが通年の保護司会の研修旅行でした。
    今年は、災害に対する心構えを啓発する旅に企画しました。

    14(日)午前8時に守口をでて、午前10時から、三木市にある兵庫県広域防災センターに見学予約を入れてありました。
    ところがさすが日曜日、山陽道もすいてて三木東インターには予定より1時間近く早くついたのは想定外だった。
    早いけれど、先に耐熱耐煙訓練から体験させてもらえることになりました。




    真っ暗なビルの一室が迷路になり、水蒸気を煙に見立てた中を手探りで進みます。
    みなさん童心に返り、まるでアトラクションに参加したがごとく楽しそうでした。

    続いて、陸上競技場の観客席ベンチ下に備蓄された品々を見学。




    毛布やテント、食料や、様々な道具類が所狭しと備蓄されてます。



    皆の視線の先にあるものは


    簡易トイレです。
    体育館とかに大勢の人が避難され、何が困るってやっぱり排泄でしょうか。
    なかなかtv報道などでは表立って映されませんので、興味津々で見学しました。

    この建物の倉庫から備蓄品を車両に車両に積載しやすいように、高さも工夫されてました。
    防災ヘリポートになるためのグランド、ヘリコプター飛行に邪魔にならないよう電線がなかったり。




    地震車での体験も、関東大震災、神戸の震災、東日本大震災、それぞれの地震を再現されました。



    消防学校の食堂で予約しておいたお弁当。
    700円とコストパフォーマンスに大満足できたのは、税金投入されてるからでしょう。

    いろいろ体験できて、ガイドさんのお話もよくわかり有意義な見学でした。

    実は、2012年2月に、地域の公民館主催見学会できたことあったのです。
    その時のパンフ残してあったので、今回保護司会メンバーにご案内することができました。

    神戸の震災から来月1/17で20年になります。
    守口市では大きな被害はなくとも結構揺れたので恐怖感は残っています。
    あの時は津波ではなく、地震と火事で大きな被害が出ました。
    多くのかたが、仕事でボランティアで現地に足を運び被害をまざまざと目にしました。

    備えあれば憂いなしとはいかないかもしれませんが、やはり災害遭遇への心構えは必要だなと実感できました。

    こうしたことに使われる税金なら誰も文句ないね、とも皆さん思われたことでしょう。

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    モリタさんでもらったパンフレットとクリアファイル。
    いろんな消防車が輪になって描かれていて、男の子だけでなくおばちゃんがみてもカワイイ。

    カニを食べるのに費用かかることはわかっていたので、他をどう節約するかが担当者の腕の見せ所。
    大人の社会見学となうって、無料で見学できる所を探しました。

    最初思いついたのが、関西電力の大河内水力発電所、残念ながら工事中だった。
    ビール工場は月曜定休、江崎グリコは大きな団体無理だった。

    ということで、バス会社さんが提案してくれた、消防自動車をつくるモリタさんへ。
    市役所や消防署関係からのプッシュがないとなかなか予約難しいそうです。
    数々の尽力をへて、無事予約とれたのが 12/15(月)14-15時でした。


    二日目朝9時に宿をでて、柴山港の但馬漁業講堂組合のカニ一番館へ。
    自らは十分満足できたので家族のために、皆さんしっかりお買い物されてました。










    柴山港の突き当たりが砂浜で海水浴場となり、前にしばやま荘がありました。

    前日、広域防災センターで見せてもらった東日本大震災の津波の画像、
    こうした風景の防波堤を乗り越えて津波が押し寄せていたのでした。
    あの映像とかぶってみえたりします。

    前日は、広域防災センター見学後、養父温泉で希望者だけ入浴。
    いいお湯でした。
    続いて、播磨屋というおかき製造販売所で試食もさせてもらってから宿に向かいました。


    雪がやんでてホンマよかった。
    土曜日は雪降って積もってたし、日月は雪やんで、火曜日からはあの爆弾的気圧。
    ご加護に感謝です。




    豊岡の市街地に入る手前のバス車中で撮影した画像の左上方に何か飛んでる
    拡大すると


    何なんでしょう~ こうのとり かな?



    お昼ごはんは道の駅「青垣」のおいでな青垣で予約。
    旅行社を通してないからこそできた昼食です。
    二八そばにてんぷらはあげたて、どれもこれもおいしくいただきました。
    1250円はお手ごろ価格で大満足。

    そして最後のモリタ 三田工場へ。




    工場は画像のようにびっしり隙間なく消防車製造中でした。
    年内納車をめざしてフル稼働中なれど、春にはガラ~ンとしてるそうです。
    撮影禁止です。
    納車されるまでの車体は公開できず、いろんな企業秘密もあるのでしょう。
    走行テストや機材の検査など見ごたえありました。

    予算が決まった春から注文をうけて、各消防署の要望に応じたオリジナル注文生産。
    一台づつ微妙に異なります。
    色だって全部赤といえども朱赤から深紅と少しづつ異なります。
    静岡県のはオレンジ色に近い赤でした。

    消防車で55%、はしご車なら90%のシェアだそうです。
    空港に納車される化学消防車は、まるで装甲車みたいな形ででかい。
    飛行機と併走して走りながら消火するらしい。

    乗用車やトラックの日本車が優れてるのは皆知ってます。
    こうした消防車も隠れた名産品であることを知りました。
    最新のテクノロジーと確かな技術で、さぞかし世界から引く手あまたでしょう。



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    今日は、冬至。
    一年で一番昼間が短く夜が長い日。
    冬至の二日前から、葛城の一言主神社では一陽来復のお札が授与されます。
    ちょっと寒気が緩んだ昨日、今年も賜ってきました。



    帰りに、かもきみの湯であったまり、牛陶板焼きの料理にほっこり。
    入湯料とセット料金で1780円の廉価もうれしいかぎり。

    冬至の日は「死に一番近い日」でその厄を払うために体を温め、無病息災を祈って柚子湯に入り南瓜を食べる習慣があります。
    今日なら、かもきみの湯はゆずが浮かんでます。


    一陽来復とは、
    陰極まって陽が復(かえ)って来ること
    すなわち運が向いてくる、良くないことが続いてもやがて幸運が巡ってくるの意。


    日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 冬至:民俗
    この日は太陽の光が弱まり植物も衰弱して農耕生活に一種の危機が訪れるとともに、またこの日からふたたび昼の日照時間が長くなり、新しい太陽が輝き始めるときでもある。
    したがって、世界の諸民族の間にも、この日を陽気の回復、再生を願う日、また太陽の誕生日とするような観念がうかがえる。
    中国では天子が冬至の日に天を祭るのを郊天の儀といい重要な儀式である。
    また西洋のクリスマスも、もとは陽気回復を祝う風習がその背景にあったのだといわれる。
    世界的にこの日は一陽来復、農耕の再生の力をもたらす神聖な旅人が村にやってくる日と信じられ、日本では弘法大師が村を巡るという伝承が広く伝えられている。
    小豆粥(あずきがゆ)や団子をつくって供える大師講の行事がこの旧暦11月23日夜から翌日にかけてみられる。
    また、冬至とうなすなどといってカボチャを食べたり、コンニャクを食べる風習があり、カボチャを食べると中風にならないなどともいわれている。
    またこの日は柚湯に入るという風も一般的である。いずれも衰弱からの再生という冬至をめぐる観念に呼応する儀礼といえよう。[新谷尚紀]


    弥生時代後期後半の吉野ヶ里地域では、冬至を新年の指標としていたことがわかっているそうです。

    中国、日本の太陰太陽暦では冬至は暦の計算の起算点として重要なものですが、今日の天文暦の推算は春分点が重要な役割を果たします。

    冬至を新年とする民族と暦はどうなっているのでしょう。
    ちょっと調べてみました。


    中国と日本の正月行事(PDF)より一部抜粋

    夏王朝では立春 商・殷王朝では冬至を含む月の翌月が年初め
    周では冬至のある月が年初であったとする説がある
    周以降、古代~前漢の時代まで冬至(12/22頃)のある月が正月であった。
    やはり農耕民族なので冬至は太陽が復活する大事な日

    時期が過ぎて、後漢の時代、24節気のある立春(2/4頃)のつきが正月となった。
    気温の一番低くなるなる立春頃こそ太陽の復活と考えたらしい

    「王様=暦を作る人」といったしきたりがあり王様が代わるたびに暦が新しくなる
    度々の改暦は民衆には不評で、元の時代にようやく新王による改暦はやめになった


    では、日本はどうかというと
    日本では604年推古天皇の時代に百済を通じて伝わった中国の元嘉暦が採用されたのが始まり。
    それ以降江戸時代まで中国の暦をだいたいそのままつかっていたので
    大陰太陽暦で立春とし始め(正月)で中国と同じ
    立春を含む月、あるいは立春の近くの新月の日が年初めだった

    604-679 元嘉暦
    679-763 儀鳳暦
    764-862 大汀暦
    862-1684 宣明暦
    1685-1842 貞亨暦
    1843-1867 天保暦
    1872- 西暦(グレゴリオ暦

    弥生時代-604年までは不明ながらも、日本書紀の記録が歴史的事実になってくる5世紀ごろには元嘉暦をつかっていたとすると事実とよく合致するらしい。

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