槇尾山は標高約600mあって約500m付近に施福寺本堂があります。
役行者が法華経を峯々に納経し、最後「巻の尾」が当山に。
ここから山号が槇尾山となったようです。
山歩きなら30分程度は楽勝ですが、お寺参りと捕らえると難所と言われます。
普段歩きなれてない昨日一緒にお参りしたエミちゃんは今朝は足パンパンだって。
駐車して歩き始めた参道は、見晴らしの良い所はほぼ上までありません。
横に流れる小川のせせらぎを聞きながら足元踏み外さないよう、時々新緑を眺めます。
ちょうどシャガの花が満開で目を楽しませてくれました。
紫の 斑(ふ)の仏めく 著莪の花 高浜虚子
山門は、1845(弘化2)年の山火事で唯一無事だった施福寺で一番古い建築物だそうです。
阿吽の仁王像は、東大寺南大門型の全国でも4例しかない珍しい形で、鎌倉時代の作らしいです。
わらじが奉納されてます。
もうすぐ本堂に到着という手前に、弘法大師御剃髪所跡=愛染堂がありました。
空海が出家して髪を剃り仏門へ入った場所です。
その髪を埋めたとされる「弘法大師御髪堂」もあります。
なんでここ施福寺なんだろうと思いました。
あちこちのブログなどを検索した結果、やっと見つけました!
>実は施福寺には、若き空海が師と仰いでいた奈良・大安寺の僧、勤操大徳が住んでいたんです。
空海に出家を勧め、剃髪したのもこの勤操。
虚空蔵菩薩求聞持法を授けたり、空海に入唐のきっかけを与えたのも、この勤操の力によるところが大きかったのだそうです。
日本に帰って来てからも、再び施福寺に籠り、真言宗の開宗のために13年間修行をしています。
お堂には愛染明王と勤操大徳、空海の肖像が祀られているそうです。
引用元は 寺社巡り.com
最後の石段上りやっと到着
花山法皇も山越えに難儀したのを象徴する馬の像
>今から千年ほど前、西国巡礼の中興の祖といわれている花山法皇は、・・・
第三番札所の粉河寺からこの霊場へ山越えしようとしたのですが、その時、道に迷ってしまいました。
昔の人はそのような時、経験のある古い馬に鈴をつけて解き放ったそうで、そうすることで鈴の音と馬の爪跡をたどれば人里にでることができたのだそうです。
法皇の一行もそのようにしたところ、馬に導かれてなんとかこの霊場にたどり着くことができました。
法皇はそのことに感謝し、お寺に馬頭観音を奉納したのだそうです。
その馬頭観音は現在も本堂奥に安置されています。
この馬頭観音は秘仏なので60年に一回の御開帳だったそうです。
ところが運よく、西国33所草創1300年で今は毎日拝観可能、お目にかかれます。
本堂内陣参拝の拝観入場券 500円
発券通し番号は 028766
2015年1月より通常公開となっていたようです。
内陣は撮影禁止ですが、かつては撮影できたようで画像拾えます。
本尊は、丈六の弥勒菩薩坐像。
脇侍に、文殊菩薩と十一面千手観音立像。
ほかに四天王像、伝教大師、弘法大師、不動明王、そして竹生島より移られたと言う弁財天像。
かずかずの御仏が目の前、すぐ手が届くような近さで拝めます。
そして私が一番気に入ったのが、方違大観音でした。
画像拝借したブログ
この方違大観音も弥勒菩薩坐像とおなじ丈六。
丈六とは
1丈6尺のことを略して丈六(じょうろく)といいます。
1丈6尺は約4.85メートルと言われますが、時代によって異なります。例えば周丈六しゅうじょうろくは、約4分の3位です。
周丈六で測ると人間の倍の寸法が丈六となります。
つまり坐像と人間が立った大きさが、ほぼ同じになります。そばで見ると、かなり圧倒されます。
仏様の優れていることを表現する、ひとつの方法です。また、お釈迦様は人の倍の背丈があった、という話しもあります。
人間より大きいものを、すべて丈六仏と呼ぶ場合もあります。
昨日投稿した記事「風薫る槇尾山ハイクで施福寺へ」の2番目の画像
「西国第四番霊場槇尾山施福寺」の石柱は、駐車場から少し上がった所です。
撮影は 10:40
ここでWalkerアプリを起動させました。
上の本堂まで約30分、ずっと登りが続きますが登山ハイクと思えば楽勝のうち、しかしお寺参りだとしんどいとこでしょう。
11:50に下り始めて、同じ石柱を背面側から撮影したのが 12:12
下りは早いですが少し膝に負担かかります。
所要時間は約1時間半、歩いた歩数4,219歩、歩行距離2,785km
歩くのもそれなりですが、その入口までたどり着くのも大変です。
電車で行く場合、泉北高速鉄道「和泉中央」駅から南海バスで「槙尾中学校前」へ、さらにオレンジバスに乗り換えて「槇尾山」へ。
このバスの運行本数が少ないらしいです。
私たちは車で守口を9:15ごろ出発し、ナビが指示するがまま1時間ちょっと要しました。
泉北ニュータウンを過ぎると、ここが大阪かというほど田舎になりびっくりします。
槙尾山口からリュック背負って歩く人を何人も追い抜いていきました。
そしてオレンジバスに乗り換えるバス停ある村中の旧道はめっちゃ狭い。
対向車来ませんようにと祈る気持ちで緊張して運転しました。
駐車場には観光バスを止めるスペースあったのでどこから上がるのだろうと思ってました。
途中で立派な高速道みたいな道が山の中腹に見えてたし。
麓の町中を迂回する新ルートが青少年の家まで、どうやら来年には開通するようです。
施福寺は、難所というだけでなく個人的にとても気になるお寺でもありました。
母方の祖父が、何度もこの施福寺に行ってたというのを親戚のおっちゃんから聞いていたからです。
昭和35年ごろにバイク事故で亡くなってるのでバイクで行ってたかも。
当時は泉北高速鉄道もなかったし、もっと行くの大変だったと思います。
何しに行ってたのか。
戦争末期堺の空襲で焼かれた寺を再建する相談だったのではないかと想像します。
檀家も焼け出されたことでしょう。
再建する莫大な費用もなかったでしょう。
でなけりゃあ、今以上に大変な難所の施福寺参りは数重ねることができなかったと思います。
半世紀以上前の祖父の思いが今にしてひしひしと感じることができました。
内陣のかずかずの御仏に、祖父にかわりご挨拶してきました。
2014-01-02
ファミリーヒストリー★母のルーツ★堺市戎之町東
槙尾寺は納経の寺です。
古来より経塚がきずかれ故事にのっとって全国各札所巡礼が終れば最後に当山にお写経を納めて下さい、と書かれています。
まだ歩けるうちに、いつか西国33箇所終えたら、こちらに写経納めにきたいと思います。
残すはあと8ヶ寺!