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Channel: 秋麗(あきうらら)
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大正天皇 と 石の宝殿

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生石(おうしこ)神社の石の宝殿を取り巻く背後の岩山にあがると
伊保山頂上に大正天皇行幸の碑が建っていました。
その向こうに高御位山が見えます。

伊保山の北側にある山の名前が 高御位山(たかみくらやま)
天皇の即位儀式に使われる高御座(たかみくら)
と同じ名前の山は、全国でここにしかないそうです。

天皇が霊(ひ)継ぎの儀式を行う高御座は、
正方形の方壇の上に、八角形の屋形が乗っているらしいです。


大正天皇は何のために石の宝殿に行幸されたのだろう・・・


あの碑を見てから ずっと気になってました。
生石を おうしこ と読むのも不思議です。



たまたま、NHKのWebニュース
大正天皇実録黒塗り範囲見直し大部分公開 大正天皇の実像詳細に 7/1 


大正天皇実録とは、
5000ページ余り85巻全巻が皇居にある宮内公文書館に所蔵されています。
昭和2年から昭和12年まで10年余りかけて当時の宮内省が編さん
情報公開法の施行を受けて平成14年から段階的に公開されましたが、
当時は個人情報の保護などを理由に全体のおよそ3%が黒く塗りつぶされていました。



「大正天皇は、激動の明治と昭和の狭間の時代を治めた悲運の天皇として知られています。
明治天皇の三男として生まれ、兄たちが幼くして亡くなったことから8歳の時に次の天皇と定められました。
生まれながら病弱でたびたび重い病気にかかりましたが、成長とともに健康を回復し、皇太子として全国各地や朝鮮半島を訪れて人々と触れあいました。
しかし、明治天皇の崩御を受けて32歳で即位すると日常が一変します。
軍事演習や式典などが中心の窮屈な生活を送るなか、
第1次世界大戦や大正デモクラシーの動きに伴う政局の混迷の影響で心労が重なり、病状が悪化。
やがて話すことも困難になり、大正10年には、皇太子、のちの昭和天皇を摂政として、事実上引退しました。
その後は療養に専念しましたが回復せず、47歳で崩御し、在位は14年余りと短期間に終わりました。」



大正天皇が暗愚であったという風説は大正時代からあり、
そのためその遺伝的な根拠を柳原愛子に求め、非難する傾向があった。
実のところは慢性的脳膜炎が変調の原因であり、これは明治天皇の夭折した10人の子女の死因でもある。


大正天皇が、播磨地方を行幸されたのはいつごろだったのだろう。
石の宝殿に参拝され、高御位山を望まれたのは。

ちなみに、関東大震災は、大正12年9月。



生石神社の石の宝殿を見た記録は
2015-06-16 なんとも不思議!シーボルトもスケッチ残した石の宝殿


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