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Channel: 秋麗(あきうらら)
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和歌浦の玉津島って、かつてモンサンミッシェルみたいだった?

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アーチ型の石橋は和歌浦のシンボルにもなっている不老橋です。
第10代紀州藩主徳川治寶の命によって、嘉永4年(1851年)第13代藩主・慶福の治世に完成しました。
片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築によるものだそうです。

日曜日、和歌山の桜見物に紀三井寺参拝した後、築港のレストランへ行く前に和歌浦へよりました。
昔から和歌浦という地名はよく耳にしていても行ったことなかった。
玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を和歌浦とよぶようです。

この不老橋を対岸から撮影した画像もらってきました。


右側に塩竈神社、石橋に隠れてますが左側に玉津島神社がありました。

江戸時代中期18世紀 桑山玉洲の絵



玉津島神社の祓所から神社になった塩竈神社は、3年前に和合の松が倒れるという事件がありまし。、


松の木は車を直撃したが幸いにも運転手の人は軽傷ですんだようです。
また山部赤人歌碑も同時に倒れたと記録されています。


和歌浦を記事にするにあたり調べてたらとても興味深いことがわかりましたので、まず見たままからご紹介します。


塩竃神社の背後が鏡山。
たまたまこの巌窟でお祓いをうけられているのに出会いました。

江戸時代の和歌山では「一に権現(紀州東照宮)、二に玉津島、三に下り松、四に塩竃よ」と歌われたそうです。



玉津島神社の背後にある神奈備山が奠供山です。
鳥居右手に「奠供山」という石碑。
何と読むのかわかりませんでしたが、「てんぐやま」でした。
耳でてんぐやまと聞いたら、「天狗山」を想像するでしょう。

疑問その1 なんで奠供山という漢字を使うのか



神社フリークには、和歌の神様として有名な玉津島神社




「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」
この付近の景色の良さを絶賛した歌のひとつです。
今は小山ですがかつては島であり、あたかも玉のように海に点在した風光明媚な地だった。


「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」

かつては玉津島は潮の干満で陸と続いたり離れたりする景観を呈していたらしく
まるでフランスのモンサンミッッシェルのようですね。

疑問その2 ただ単に景勝の地の観光だけで数多くの歌が残されたのだろうか



玉津島神社の祭神は、三女神
稚日女尊(わかひるめのみこと)
神功皇后
衣通姫(そとおりひめ)



奈良時代の聖武天皇は当時「弱浜(わかのはま)」と呼ばれていたこの地を、素晴らしい景色にちなんで「明光浦(あけのうら)」と改め、さらにこの地の景観を守るため守戸を置くことを命じた。
詔によって、春秋2回、祭器に供物を盛り神々に供えたと伝わります。

奠供とは神事に用いる祭器のことで、
この地は神の降臨する場所とされ奠供山(てんぐやま)と呼ばれるようになりました。

聖武天皇は即位してすぐに和歌の浦に行幸され2週間滞在。

山部赤人は、柿本人麻呂と並ぶ万葉の代表的な歌人で
奈良時代・聖武天皇のあちこちの行幸に従駕し土地讃めの歌を作っています。


神亀元年(724)甲子の冬の十月五日に、紀伊の国に幸す時に、山部宿禰赤人の作る歌一首

やすみしし 我ご大君の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野(さひかの)ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山 (6-917)

反歌二首
沖つ島荒磯(ありそ)の玉藻潮干(ひ)満(み)ちい隠りゆかば思ほえむかも(6-918)
若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る(6-919)


疑問その3 なんで聖武天皇は即位してすぐに和歌浦へ行幸されたんだろう?

そして2週間も滞在されたって、ちょっと長すぎる。
何か理由があるに違いないと思えました。

こうした疑問をもって調べていると、引っ掛かってきました!

和歌の浦みちしるべの会
丹生都比売神社・日前宮と玉津島神社

一部抜粋させてもらいます
「現在の紀ノ川は西流して海に流れ込んでいるが、古墳時代は大谷古墳の南西部で大きく屈曲して南に流れ、現在の和歌川河口部で海に流れ込んでいた。
紀ノ川河口部が和歌浦にあった頃、瀬戸内海をとおり、朝鮮半島へ行く玄関口でもあった。
豊富な木材により造られた船と巧みな航海術を持つ紀氏は、大和に政権を持つ天皇家にとって、紀氏はなくてはならない氏族であった。

古代の港は、河口を少し遡ったところに置かれるので、和歌山平野に大きな力を持っていた紀氏・その始祖を祀るのが日前宮。
その一族の紀ノ川上流の天野社神輿が、紀ノ川河口部に位置する玉津島に渡御し、帰りに日前宮草の宮にも渡御した。
紀氏と丹生氏の神事を執り行う聖地であった玉津島。
玉津島での神霊の存在を背景として、聖武天皇の玉津島行幸があった」

神別氏族:紀国造家「日前国縣神宮」神職家
・神武天皇のとき「紀伊国造」としたとある紀直の祖
・天孫降臨の時、日像、日矛両鏡を奉斉し「日前国縣神宮」に祀った
・紀の国紀氏は古墳代初頭の昔から紀国の豪族であった




古代、紀ノ川は和歌の浦に河口部があり、そこは島々があたかも玉のように点在した風光明媚な地。
そのなかの玉津島は潮の干満で陸と続いたり離れたりする神々しさが神奈備となる。
神のおわす所として崇められ、丹生より稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられたのでした。

大和政権初期から紀氏はたいそう勢力が強かったようで、皇后や妃になられた方も多いようです。
第49代光仁天皇の母(施貴皇子の妃)は紀橡姫(とちひめ)で紀氏の出身。771年皇太后を追贈されています。

紀三井寺が開基されたのは770年為光上人によりますが、そのもっと昔から名草山も聖地だったからなんでしょう。

このあと午後には、紀の川市の粉河寺に参詣しましたが、こちらも770年創建。



歌川広重の描いた和歌浦


月日は流れ、てんぐやまとその周辺和歌の浦に往時の面影は見られません。
天橋立に比肩する風光明媚なる景勝地は、近現代において著しく地形が変わったのも大きな一因でしょう。


Wikiページによれば、その栄枯盛衰は驚くべきものがありました。

「平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。
中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。
また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる。

1950年に毎日新聞による「新日本観光地百選」の海岸の部にて1位を獲得すると、その美しさが全国的に知られるようになり、加えて縁結び信仰が強かった玉津島神社の存在意義も相俟って、全国随一の新婚旅行スポットとなり、観光客は一段と増加した。さらにその後は瀬戸内海国立公園への編入も決定したことで、年間宿泊者350万人を数える一大観光地に成長した。
1965年ごろになると、新婚旅行の人気スポットは、宮崎など九州地方に西漸して、その影響を受けた和歌浦は宿泊客の減少が著しくなり、宿泊施設数はピークの半分に減少
昭和中期に隆盛を誇った反動で、多くの廃業ホテル、旅館を生み
バブル期を迎えても、すでに観光地としての魅力を奪われていた和歌浦は開発、投資の対象にもならず、そのまま放置されていた
2002年頃に廃墟ブームが勃発すると、巨大な廃墟物件を抱えていた和歌浦は「廃墟の聖地」と揶揄されるまでになっていた
特に高度経済成長期に安直な建て増しを行い、迷路のような構造となっていた廃業旅館は、サバイバルゲーム愛好者や廃墟マニアにとって屈指の人気スポット
2005年10月にこれらを含めた廃墟物件は軒並み撤去されることになり、一連の騒動は終止符を打った。
2011年に漸く国の名勝に指定され、雑賀崎周辺は瀬戸内海国立公園の特別地域に指定されており、其々保護されている。」




今年は高野山開創1200年で次々と記念式典執り行われています。
その高野山が聖地となるまでに、この紀ノ川下流で歴史の積み重ねがあったのですね。

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