若狭一の宮は上社と下社の総称です
上社は、若狭彦神社、下社は、若狭姫神社と呼ばれます。
祭神は、彦神社は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと・山幸彦)
姫神社は豊玉姫命(とよたまひめみこと・乙姫)
今回のツアー参加者全員が初めての神社です。
それほど遠くはない大阪からでもこのデータ。
おそらく今後もめったに訪れることはなさそうなので
ネットでバーチャルお参りしていただきましょう。
*去年夏に舞鶴若狭道が小浜までつながったので行きやすくなりました。
現在、小浜-敦賀間は工事中で全線開通ももうすぐ。
まずは上社の若狭彦神社から
本殿右手の若宮神社にはウガヤフキアエズが祀られていました。
神紋は「宝珠に波」
祭神の彦火火出見尊(山幸彦)が龍宮から帰るときに賜った潮を自在に操る玉
彦神社は和銅7年(714)遠敷郡下根来村白石に創られました。
東大寺の開祖である良弁僧正(ろうべん 689-773)の生誕地です。
霊亀元年(715)現在の地に遷社したとされています。
若狭彦大神は、白石の上に始めて垂迹し、その姿は唐人のようであったといわれる。
その白石の下にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、東大寺二月堂の閼加井に通じているのだとか。
現在、その地には白石神社が祀られています。
奈良時代以降、若狭湾に面し海の幸に恵まれた若狭一帯は、
天皇家の食料である 御贄(みにえ)を送る御食国(みけつくに)として重要な役割を果たしてきました。
平安時代に入ると海上交通の要地となり、
海を隔てて向き合う大陸や朝鮮半島をはじめ、日本各地から多くの文物が流入し小浜と京の都を結びました。
室町時代足利義満の時代には、象とダチョウがこの小浜から初めて日本上陸したとか。
出雲の国や越の国と繋がり、緒戦半島、さらにはインドの象までやってきた小浜。
良弁僧正は若狭神宮寺の資料によれば、
秦氏の出で、秦常満という長者の一子であったそう。
神童の呼び声が高かったため、神宮寺開祖の和赤麿が大和へ連れて行き、
当時第一の名僧であった法相宗の義淵僧正に預け弟子にしてもらったらしい。
先の御食国のところでも触れましたが、安曇氏と関係深いとか秦氏とか、ふ〜ん…
若狭彦若狭姫はこの地の開拓の上として、
上社で火を、下社で水を司るのだそうで、両社参りでご利益あると。
なんでしかし、この若狭の地に
海幸彦山幸彦の神話に出てくる神様が祀られているのでしょう。
彦火々出見尊 ひこほほでみのみこと →以下ホホデミと略す
豊玉毘売命 とよたまひめのみこと→トヨタマヒメ
鵜葺草葺不合命 うがやふきあえずのみこと→ウガヤフキアエズ
火遠理命(山幸彦)ホホデミが、兄である火照命(海幸彦)ホデリの釣針をなくして海神宮を訪れた。
そこで結婚したのが、海神の娘であるトヨタマヒメ。
鯛の喉にかかっている釣針がやっと見つかったし、三年も過ぎてるし、
ホホデミは帰還することになり、塩満玉・塩乾玉という二つの玉を授けられた。
トヨタマヒメは天神の子を宿したことを知り、海辺の渚に鵜の羽を茅葺きの材料として産屋を作り出産する。
ホホデミは禁止されていたにもかかわらず産屋を覗き見ると、トヨタマヒメの姿は八尋和迩(鰐)となっていた。
姿を見られたことを恥じたヒメはウガヤフキアエズを出産後、海神の国との境界を閉じて海神宮へ帰ってしまった。
トヨタマヒメにに代わって、 その妹であるタマヨリヒメに育てられたウガヤフキアエズ。
後にタマヨリヒメと結ばれ、神武天皇の父となる。
上社は、若狭彦神社、下社は、若狭姫神社と呼ばれます。
祭神は、彦神社は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと・山幸彦)
姫神社は豊玉姫命(とよたまひめみこと・乙姫)
今回のツアー参加者全員が初めての神社です。
それほど遠くはない大阪からでもこのデータ。
おそらく今後もめったに訪れることはなさそうなので
ネットでバーチャルお参りしていただきましょう。
*去年夏に舞鶴若狭道が小浜までつながったので行きやすくなりました。
現在、小浜-敦賀間は工事中で全線開通ももうすぐ。
まずは上社の若狭彦神社から
本殿右手の若宮神社にはウガヤフキアエズが祀られていました。
神紋は「宝珠に波」
祭神の彦火火出見尊(山幸彦)が龍宮から帰るときに賜った潮を自在に操る玉
彦神社は和銅7年(714)遠敷郡下根来村白石に創られました。
東大寺の開祖である良弁僧正(ろうべん 689-773)の生誕地です。
霊亀元年(715)現在の地に遷社したとされています。
若狭彦大神は、白石の上に始めて垂迹し、その姿は唐人のようであったといわれる。
その白石の下にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、東大寺二月堂の閼加井に通じているのだとか。
現在、その地には白石神社が祀られています。
奈良時代以降、若狭湾に面し海の幸に恵まれた若狭一帯は、
天皇家の食料である 御贄(みにえ)を送る御食国(みけつくに)として重要な役割を果たしてきました。
平安時代に入ると海上交通の要地となり、
海を隔てて向き合う大陸や朝鮮半島をはじめ、日本各地から多くの文物が流入し小浜と京の都を結びました。
室町時代足利義満の時代には、象とダチョウがこの小浜から初めて日本上陸したとか。
出雲の国や越の国と繋がり、緒戦半島、さらにはインドの象までやってきた小浜。
良弁僧正は若狭神宮寺の資料によれば、
秦氏の出で、秦常満という長者の一子であったそう。
神童の呼び声が高かったため、神宮寺開祖の和赤麿が大和へ連れて行き、
当時第一の名僧であった法相宗の義淵僧正に預け弟子にしてもらったらしい。
先の御食国のところでも触れましたが、安曇氏と関係深いとか秦氏とか、ふ〜ん…
若狭彦若狭姫はこの地の開拓の上として、
上社で火を、下社で水を司るのだそうで、両社参りでご利益あると。
なんでしかし、この若狭の地に
海幸彦山幸彦の神話に出てくる神様が祀られているのでしょう。
彦火々出見尊 ひこほほでみのみこと →以下ホホデミと略す
豊玉毘売命 とよたまひめのみこと→トヨタマヒメ
鵜葺草葺不合命 うがやふきあえずのみこと→ウガヤフキアエズ
火遠理命(山幸彦)ホホデミが、兄である火照命(海幸彦)ホデリの釣針をなくして海神宮を訪れた。
そこで結婚したのが、海神の娘であるトヨタマヒメ。
鯛の喉にかかっている釣針がやっと見つかったし、三年も過ぎてるし、
ホホデミは帰還することになり、塩満玉・塩乾玉という二つの玉を授けられた。
トヨタマヒメは天神の子を宿したことを知り、海辺の渚に鵜の羽を茅葺きの材料として産屋を作り出産する。
ホホデミは禁止されていたにもかかわらず産屋を覗き見ると、トヨタマヒメの姿は八尋和迩(鰐)となっていた。
姿を見られたことを恥じたヒメはウガヤフキアエズを出産後、海神の国との境界を閉じて海神宮へ帰ってしまった。
トヨタマヒメにに代わって、 その妹であるタマヨリヒメに育てられたウガヤフキアエズ。
後にタマヨリヒメと結ばれ、神武天皇の父となる。