2月の終わり頃一週間前の話ですが、お隣の門真市の保護司さんから差し入れ戴きました。
まむ多の楠どら、どら焼きです。
超美味しかったです。
それにしても変な名前の店名だと調べてみました。
その和菓子屋さんのある地の旧名が茨田(まんだ)郷という水郷地帯。
旧蹟茨田の堤が近くにあり、近畿自動車道の大東鶴見出入り口は茨田(まった)と呼んでます。
むかしむかしは、まむた と呼んでいたことが、まむ多の由来でした。
茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)は、
仁徳天皇が淀川沿いに築かせたとされる堤防です。
5世紀頃、淀川の洪水を 防ぐため渡来人などの技術を用いて築かれました。
1年前に、淀川堤防を歩いて気になったことを記事にしました。
2013-01-14 とうとうと流れる淀川、実は
その時に、この仁徳天皇の築造の際、困難な箇所が2ヶ所あり、人柱を立てた地が2箇所あることを知りました。
「強頸の絶間」は大阪市旭区千林町、
「衫子の絶間」は寝屋川市太間町だといわれています。
そのうち見学行って記事にしようと思ってたら、あっという間に1年が過ぎ
先にどらやきがやってきたという次第です。
天皇は夢に「武蔵の人強頸(こわくび)と、河内の人茨田連衫子(ころもこ)の2人を以って河泊(かわのかみ)を祭れ」
との神のお告げを得て、2人を川に沈めようとしたのです。
強頸は悲しみながらも人柱となり川に沈んだ。
しかし、衫子は身代わりに匏(ひさご)を水中に投げ入れ神意をはかり死を免れたと伝わります。
つまり水に投げ入れたひょうたんが沈んだら私も水中に身を投げるが
浮いたら沈む必要なないみたいなことを言って助かったのです。
ひょうたんは水に浮くのが当たり前ですもんね。
この地図の上の方、三島、かつては御島に三島鴨神社も祀られたのですが、
そこよりも下流の淀川新橋近くの寝屋川に絶間橋という地名が残っています。
茨田の堤の完成により河内平野の農耕は急速に発達するも、堤はその後も度々決壊修築されています。
淀川の堤防の決壊の記録は百数十回にも及ぶとのこと。
近世になって豊臣秀吉の文禄堤の築造や淀川や大和川の治水工事が進つれ、
この茨田の堤の役目も終わったのでした。
この僅かに残された「茨田の堤跡」は1973年(昭和48年)大阪府の史跡に指定されています。
今回の記事で一番気になるのは
河内の人茨田連衫子ころもこ)が瓢箪で助かったという言い伝えです。
秦氏 ひょうたん などで検索すると、話はどんどん歴史のミステリーにはまり込んで行きます。
まむ多の楠どら、どら焼きです。
超美味しかったです。
それにしても変な名前の店名だと調べてみました。
その和菓子屋さんのある地の旧名が茨田(まんだ)郷という水郷地帯。
旧蹟茨田の堤が近くにあり、近畿自動車道の大東鶴見出入り口は茨田(まった)と呼んでます。
むかしむかしは、まむた と呼んでいたことが、まむ多の由来でした。
茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)は、
仁徳天皇が淀川沿いに築かせたとされる堤防です。
5世紀頃、淀川の洪水を 防ぐため渡来人などの技術を用いて築かれました。
1年前に、淀川堤防を歩いて気になったことを記事にしました。
2013-01-14 とうとうと流れる淀川、実は
その時に、この仁徳天皇の築造の際、困難な箇所が2ヶ所あり、人柱を立てた地が2箇所あることを知りました。
「強頸の絶間」は大阪市旭区千林町、
「衫子の絶間」は寝屋川市太間町だといわれています。
そのうち見学行って記事にしようと思ってたら、あっという間に1年が過ぎ
先にどらやきがやってきたという次第です。
天皇は夢に「武蔵の人強頸(こわくび)と、河内の人茨田連衫子(ころもこ)の2人を以って河泊(かわのかみ)を祭れ」
との神のお告げを得て、2人を川に沈めようとしたのです。
強頸は悲しみながらも人柱となり川に沈んだ。
しかし、衫子は身代わりに匏(ひさご)を水中に投げ入れ神意をはかり死を免れたと伝わります。
つまり水に投げ入れたひょうたんが沈んだら私も水中に身を投げるが
浮いたら沈む必要なないみたいなことを言って助かったのです。
ひょうたんは水に浮くのが当たり前ですもんね。
この地図の上の方、三島、かつては御島に三島鴨神社も祀られたのですが、
そこよりも下流の淀川新橋近くの寝屋川に絶間橋という地名が残っています。
茨田の堤の完成により河内平野の農耕は急速に発達するも、堤はその後も度々決壊修築されています。
淀川の堤防の決壊の記録は百数十回にも及ぶとのこと。
近世になって豊臣秀吉の文禄堤の築造や淀川や大和川の治水工事が進つれ、
この茨田の堤の役目も終わったのでした。
この僅かに残された「茨田の堤跡」は1973年(昭和48年)大阪府の史跡に指定されています。
今回の記事で一番気になるのは
河内の人茨田連衫子ころもこ)が瓢箪で助かったという言い伝えです。
秦氏 ひょうたん などで検索すると、話はどんどん歴史のミステリーにはまり込んで行きます。