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Channel: 秋麗(あきうらら)
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三島と藤原氏、そして百済

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この玉枕と冠は、復元されたもので、2年前のブログで紹介しました。
2010-12-16 「ジャパン」といえば「漆」

茨木市にある阿武山古墳の貴人用夾紵棺から遺体とともに見つかったものです。

その画像のものに、今城塚古代歴史館で出会いました。




棺の形がゆがんでいるのはなぜかと、ガイドさんにお尋ねしました。
興福寺の阿修羅像と同じく布に漆で固めた夾紵棺(きょうちょかん)ゆえ、
棺の蓋を開けたとたん、空気に触れたためか突然ゆがんだそうです。



ネットで玉枕とみたので、緑色の玉は上等の翡翠なのかと思い込んでました。
しかしガラス製品だったようです。


「藤氏家伝」には、藤原鎌足は645年大化の改新(乙巳の変)の前年に三島の地に隠棲しており、669年山科精舎に埋葬後、阿武山、そして多武峯へと改葬されたと伝えられているそうです。
ではなぜ、阿武山でみつかった遺体を鎌足と見なすのかは、以下サイトをご参照ください。

真説日本古代史 特別編の七 摂津阿武山古墳調査報告書



2010年秋、牽牛子塚(けごしづか)古墳がニュースになりました。
その関連から、中臣鎌足や藤原不比等に興味をもちました。


舒明3年(631年)の春正月1日、中臣(藤原)鎌足が神祇伯に拝さらるが、再三これを固持し、病と称して三嶋に侍った

なんで三島の地と関係あったんだろう?


鎌足の長男である定恵はわずか11歳にして遣唐使として中国に渡ります。
不比等は鎌足の次男です
10年が過ぎて帰国するにあたり、まだ帰国できない事情があり百済にしばらく停留。
やっと帰国できて数ヵ月後に暗殺されたとなってます。
ところがこの定恵が開創したというお寺がいっぱいあるのです。

この定恵さんは、鞍馬天狗 2010-05-04 で記事にしたときに出てきたので記憶してました。

「定恵は帰国後、父・藤原鎌足の供養のため多武峰妙楽寺(後の談山神社=奈良県)を建立。ここで長安で学んだ仏法や拳法を教授した。その拳法の流祖を父・鎌足に仮託したものと思われる。」

そんな拳法の達人がいとも簡単に暗殺されるのだろうか…


なぜ藤原氏という名前を賜り、なぜ藤原京だったのか?
「藤原」とは「百ホ・済ゼ・倭ワ・国ラ」の当て字であったとか…


三島と百済と藤原氏。
なんかつながってますね〜

興味おありのかたは、以下サイトでお楽しみ下さい。

真説日本古代史 特別編の五 藤原鎌足を考える

今、日本に住んでいる人は日本人でないの? … 藤原鎌足

藤原氏は百済王族だった!

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