生駒聖天さんの五社明神、
宝山寺サイトでは、中興草創のみぎり、湛海律師を助けた生駒山の地神さまと記載されています。
五社明神で調べてみると、大覚寺がヒットします。
「嵯峨天皇が離宮嵯峨殿を営んだ際、嵯峨天皇が帰依した空海が嵯峨殿の鎮守社として勧請。嵯峨殿が寺に改められて大覚寺となると、その鎮守社となったといいます…豊受大神ら五柱の神をまつります」
※五社明神は、使用例枚挙に暇無いほどの大覚寺の中でもとりわけ頻繁に使われる撮影スポット らしいです。
今秋は、大覚寺で勅封心経御写経を60年ぶりに公開され、それまでの修復状況もTVでも放映されてました。
そうしたこともあり、大覚寺は検索上位にきたのでしょう。
大覚寺のサイトでは
弘仁9年の春、大旱魃から全国に疫病が蔓延したことに対し、 嵯峨天皇は「朕の不徳にして多衆に何の罪かあらん」と、 離宮嵯峨院で質素倹約に努められました。 そのおりに、弘法大師の勧めにより、般若心経に帰依して読誦転経し、 殊に嵯峨天皇が紺紙に金泥で一字三礼の誠を尽くして般若心経を書写されると、 霊験あらたか、疫病はたちまちに治まり、大いなる功徳を得られました。 以来、この嵯峨天皇宸翰(しんかん)の般若心経は霊経と崇められております。
大覚寺といえば、嵯峨未生流で、今は嵯峨御流と名前が変わってます。
公式サイトより
1200年前、「弘仁9年大旱魃から全国に疫病が蔓延したことに対し」と大覚寺のサイトには書かれてました。
でも、その818年(弘仁9)、以下のようなことがあったとと知りました。
弘仁9年(818)7月、関東地方を未曽有の大地震が襲った。弘仁地震である。その被害は、千葉県南部の安房・上総国を除く関東全域に及んだ。とくに上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県)は被害が大きく、『類聚国史』は、「山が崩れ谷を数里にわたって埋めた。圧死した人々がどれほどいたか、計り知れない。」と伝える。
引用元 弘仁地震の被害と復興、 そして教訓 - J-Stage