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龍蓋寺の龍と義淵僧正と

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岡寺は龍蓋寺という名前でもあり、その由来となった伝承
「飛鳥を荒らす悪龍を其の法力により石の蓋をもって、池に閉じ込め改心させる 龍は善龍となり今もこの池に眠る この池を龍蓋池と名付け龍蓋寺(岡寺)の始まりとなる」




小さな池の真ん中の岩が蓋となり悪龍が封印されてるんだって。
のぞきこんでじっくり見たけど、何も見えず感じず、画像にも何も写りこんでなかった。



石版彫刻背後にラッパスイセンの黄色が眩かった。





背後の山に石塔があり赤い鳥居が見えたので行ってみる。






龍蓋池のほぼ後ろにある瑠璃井



門柱のまさに中央奥に不動明王の石碑があり、右奥に小さな滝。
瑠璃の井という命名にも、なんとなく瀬織津姫だとふと思いました。

赤い鳥居は稲荷社


右の階段あがると奥の院石窟、数メートル奥に弥勒菩薩が祀られてました。





義淵僧正は竜使いだと教えてくださったのは吉田さん。
ちょうど今吉田さんのブログでも取り上げられています。

少し前に、拙ブログで吉田さんがコメントで次のように書いてくださり、たいそう興味を持っていました。

「藤原不比等が祀った藤原家繁栄の天神八座は竜神結界祭祀で
かなりの犠牲の上に成り立っていると記載していますが
この術は強力で現代まで残っていました。
義淵の弟子の玄昉・行基・隆尊・良弁・道慈・道鏡などは
皆この竜に太刀打ちできなかったのです。
師匠の義淵は竜使いでした。
悪竜と変じた大津皇子を調伏したとかいう
妖しい話が伝わっています。
義淵は百済聖明王の末裔と云われていて
不比等は百済王子豊璋の血統です。
私見ですが藤原家繁栄の天神八座の竜神結界祭祀を
仕切ったのは義淵の可能性が高いと感じています。。
海女の血統の宮子姫も人身御供の中心のはずだったものが
誰かがちょっかいを出したせいで人身御供から外れて
幽閉されたものと思われます。
でもそのおかげで藤原家は盤石ではなく
栄光と苦難と争いの大一族となったのでしょうね。」

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まず、義淵(ぎえん)について調べてみました。
奈良時代、法相(ほっそう)宗の僧。(?―728)
大和国(奈良県)高市(たかいち)郡の人。
俗姓は百済王の子孫市往(いちき)氏(または阿刀(あと)氏)。
両親が観音菩薩に子授けを祈ったところ、柴垣の上に置かれていたという。
出家して法相宗の第三伝智鳳に教えを受け、703年(大宝3)僧正に任ぜられ、仏教界の最高責任者となった。
とくに興福寺系法相宗の中心をなし、社会事業に活躍した行基、法相宗第四伝となった玄昉(げんぼう)、華厳宗を開いた良弁、このほか宣教、隆尊など多くの弟子をもち、日本法相宗の実質上の開祖とさえ評価する学者もいる。
竜蓋寺(りゅうがいじ)(岡寺)、竜聞(りゅうもん)寺、竜福寺、竜泉寺、竜象寺など五箇竜寺の開山で、元正・聖武天皇の代に宮中の内道場に仕え、その功により市往氏に岡連(おかのむらじ)の姓を賜った。
・・・以上 日本大百科全書(ニッポニカ)より


先の岡寺の記事で、「飛鳥時代の名僧、義淵(ぎえん)が、早世した天武天皇の皇子、草壁皇子の宮を賜って寺としたのが始まりという。義淵は子供のない夫婦が観音さまに願掛けに通っているときに垣根の上に置かれていた赤ん坊で、話を聞いた天智天皇が義淵を引き取り、幼かった草壁皇子と一緒に岡宮で育てたといわれている。」


ところが、岡の宮が義淵に下賜された663年が岡寺開創で
草壁皇子(くさかべのみこ)は662年生まれ。
なんか時期が微妙に合いませんね。


天武天皇の第2子である草壁皇子は、689年(持統天皇3年)皇位を約束されながら即位することなく28歳の若さで薨じました。

662年(天智天皇元年)天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の皇子として誕生
672年(天武天皇元年)壬申の乱が勃発
681年(天武天皇10年)に皇太子
689年(持統天皇3年)死去



少し視点を変えて、この岡寺の少し北に大原の里があります。
なんと藤原鎌足の生誕地といわれる大原がこんなとこにあったとは知らなかった。

天武天皇が鎌足の娘の五百重娘(いほえのいらつめ)=藤原夫人に送った歌

わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後(のち)
(万葉集巻2・103)
歌の意味:私の住んでいる里に大雪が降った。(あなたの住む)大原の古い里に降るのはもっと後だろう。

これに対して、藤原夫人は次の歌を返した。

わが丘の おかみに乞ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
(万葉集巻2・103)
歌の意味:私の所の神様が降らせた雪が、そこまで散っていったのでしょう。

詳しくは→大原の里 でご覧ください。

『わが丘の おかみ』というのが、岡寺の龍のようです。


鎌足の没年は669年で、五百重娘(いおえのいらつめ)は生没年不詳なれど
姉の氷上娘(ひかみのいらつめ)は682年に亡くなったときに藤原夫人歌一首が残っていて、少なくとも682年には生存してた。



奈良県の竜蛇(「怪異・妖怪伝承データベース」より)
話 名 大蛇
資 料 奈良県史13 民俗(下)
場 所 高市郡 明日香村
要 約 岡寺の境内の竜蓋池は、義淵僧正が大蛇を退治した池。旱魃の時には池の中央の石を動かせば雨が降ると言われている。


この龍と義淵僧正と、天智天皇と天武天皇の第二子が草壁皇子。
そして悲劇の大津皇子は、鵜野讃良皇后の姉大田皇女が母。
いろいろ繋がってます。
そのあたりがまた、藤原家の発祥の地でもありました!



大津皇子の辞世歌
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

磐余の池がどこにあったのか調べてみると岡寺のほぼ北にありました。
磐余池跡


大津皇子(おおつのみこ)663-686 享年24歳
母は天智天皇皇女の大田皇女-鵜野讃良皇后の姉
686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。

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