ふつう神社って、鳥居をくぐって参道を行けば正面突きあたりに本殿があります。
御所の鴨都波神社も かつては境内もっと大きかったのでしょうが、
現在は境内東北にある駐車場に車を止めると、さらに東側に大きな鳥居が見えます。
すぐ横にはお互いが向き合った阿吽の狛犬あります。
左手前に手水舎があり、狛犬右側奥に 祓戸神社。
お参りの一番初めに穢れをはらう神様です。
ということは、さらに東30mほど先に見える鳥居が一の鳥居なんでしょう。
元々東が正面で、R24沿いの鳥居はかつては裏門だったように思えます。
参道を進むと境内が横に長く開けていて、右90度に本殿という配置です。
正面には裏?鳥居へと続く参道に小さな太鼓橋が見えます。
小さな小川が流れていて、それに面して橋の左手に神農社がありました。
社号標には「神農薬祖神」とあります。
少名毘古那神が祀られています。
大阪のえべっさんは、今宮戎と木津の大国さんで両参りと言われます。
その大国主神社は敷津松宮と境内を同じくして参道がクロスしてます。
それに近いような不思議な境内に思えました。
御所市観光HPによれば、
葛城川と柳田川の合流地点で水に恵まれていたことから、元々「水の神」を祀っていたものとする説もあるようです。
神農社を掃除していた氏子のおっちゃんは、
ここのススキ提灯献灯は、東北の盛大な夏祭り巨大ちょうちんの発祥だと話されてました。
そして社務所後ろにも二つ社あるからお参りされるようにと。
境内社はたくさんありましたが、社務所裏は教えてもらわないとなかなか気づきません。
参道にクロスして、本殿と反対側に廻ってみると、社務所裏は築山でした。
確かに小さなお社二つ並んでました。
笹神社(市杵島比売命)と八坂神社(素戔嗚命)
市杵島比売命をお祭りして、笹神社という名前がつくのを初めて見ました。
一言主神社や高天彦神社など葛城古道沿いの神社は、本殿が葛城の山々を背にして東向いてます。
鴨都波神社は、高鴨神社が上鴨社というのに対して下鴨社と言われていますが、ともに本殿は南向き。
方位が違うと少し雰囲気も異なり時代も違うような気がする。
鴨氏と葛城氏の違いとかあるのだろうか…?
神社一帯は大規模な弥生時代の鴨都波遺跡も発見されており、神社はその遺跡の上に鎮座しているそうだ。
御所市内の町なかにあって、標高もかなり低い。
最初は紀ノ川から葛城の東側山麓に入植した氏族は、弥生時代後期に入り海水面が低下して奈良盆地から水が引いたので低地におり出したのかも。
崇神天皇の勅に奉じて、太田田根彦の孫にあたる大賀茂都美命が、
葛城の賀茂に事代主命を奉斎し、賀茂の氏を賜わり、大神神社の別宮とされたそうです。
古い社名は鴨都味波八重事代主命(かもつみわやえことしろぬしのみこと)神社
祭神、鴨・都味波=積羽・八重事代主命(かも つみは やえ ことしろぬしのみこと)
大・賀茂・都美命と似てますね。
大神神社におまつりされている大国主命(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様で、「大神神社の別宮」とも称されています。
国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあり
一般的には「えびす神」という呼称で商売繁盛の神様としても有名です。
鴨都波(かもつば)神社
積羽八重(つみはやえ)事代主命(ことしろぬしのみこと)
どちらも振り仮名ないと読めません。
先のページに、櫛羅(くじら)とか不思議な地名あると書きました。
このくじらで検索してると、もう一つの東征(東遷)とページがヒットしました。
カモタケツヌミは南九州の曽の国から神武天皇に先立って大和の葛城に東遷したと『山城国風土記』には書かれているが、
そのことを証明できるのではないかと思われる地名が葛城の地にあるので、それを提示して考察してみたい。
ひとつは御所市の大字地名「櫛羅」で、現地では「クジラ」と読んでいるが、
漢字本来の字音からすれば「クシラ」でなくてはなるまい。
これは源順の『和名類聚抄』・郡郷名に記載のある大隅国姶羅郡串占(くしうら=串良)に直につながる地名である。
というのは次の理由による。
この御所市大字櫛羅には式内社「鴨山口神社」がある。
「延喜式巻第九・神祇神名上」によれば「名神大」で「月次祭・新嘗祭」を官幣によって行う大社であった。
祭神は「オオヤマツミ」で山の神である事は言うまでもないが、
不思議なのは山の神なのに海鳥である鴨が冠せられていることだ。
しかも鴨山口神社の建つ土地の小字を「大湊」という。
これも海に関する命名そのものずばりであり、いったいどうしてこのような地名になったのか土地の人でも首を傾げるほかないようである。
しかし山城国風土記が示唆するように南九州の曽の国の串良湊(大隅潟湖=ラグーン)から
鴨(鹿子=航海民)族が船団を組んで紀州に至り、紀ノ川ルートで大和の葛城山麓に定住したから、と解けば何ら不思議ではないであろう。
この方の推論によれば、
「鴨都味波」は「カモツアジナミ(ミミ)」と読むべきで「鴨族の中の鴨王」と解釈される。
鴨とは航海民のことだから「航海族の中の航海王」と言い替えられよう。
これに「八重事代主命」を加えて解釈すると
航海族の中の航海王であり、あらゆることに精通した王者
という人物(神格)が浮かび上がってくる。
さて、祭神はもうひとかたおられて下照比売命(したてるひめのみこと)
序文にも至らなかったけれど、長くなるので次回に。
年内に書けるかな…?
御所の鴨都波神社も かつては境内もっと大きかったのでしょうが、
現在は境内東北にある駐車場に車を止めると、さらに東側に大きな鳥居が見えます。
すぐ横にはお互いが向き合った阿吽の狛犬あります。
左手前に手水舎があり、狛犬右側奥に 祓戸神社。
お参りの一番初めに穢れをはらう神様です。
ということは、さらに東30mほど先に見える鳥居が一の鳥居なんでしょう。
元々東が正面で、R24沿いの鳥居はかつては裏門だったように思えます。
参道を進むと境内が横に長く開けていて、右90度に本殿という配置です。
正面には裏?鳥居へと続く参道に小さな太鼓橋が見えます。
小さな小川が流れていて、それに面して橋の左手に神農社がありました。
社号標には「神農薬祖神」とあります。
少名毘古那神が祀られています。
大阪のえべっさんは、今宮戎と木津の大国さんで両参りと言われます。
その大国主神社は敷津松宮と境内を同じくして参道がクロスしてます。
それに近いような不思議な境内に思えました。
御所市観光HPによれば、
葛城川と柳田川の合流地点で水に恵まれていたことから、元々「水の神」を祀っていたものとする説もあるようです。
神農社を掃除していた氏子のおっちゃんは、
ここのススキ提灯献灯は、東北の盛大な夏祭り巨大ちょうちんの発祥だと話されてました。
そして社務所後ろにも二つ社あるからお参りされるようにと。
境内社はたくさんありましたが、社務所裏は教えてもらわないとなかなか気づきません。
参道にクロスして、本殿と反対側に廻ってみると、社務所裏は築山でした。
確かに小さなお社二つ並んでました。
笹神社(市杵島比売命)と八坂神社(素戔嗚命)
市杵島比売命をお祭りして、笹神社という名前がつくのを初めて見ました。
一言主神社や高天彦神社など葛城古道沿いの神社は、本殿が葛城の山々を背にして東向いてます。
鴨都波神社は、高鴨神社が上鴨社というのに対して下鴨社と言われていますが、ともに本殿は南向き。
方位が違うと少し雰囲気も異なり時代も違うような気がする。
鴨氏と葛城氏の違いとかあるのだろうか…?
神社一帯は大規模な弥生時代の鴨都波遺跡も発見されており、神社はその遺跡の上に鎮座しているそうだ。
御所市内の町なかにあって、標高もかなり低い。
最初は紀ノ川から葛城の東側山麓に入植した氏族は、弥生時代後期に入り海水面が低下して奈良盆地から水が引いたので低地におり出したのかも。
崇神天皇の勅に奉じて、太田田根彦の孫にあたる大賀茂都美命が、
葛城の賀茂に事代主命を奉斎し、賀茂の氏を賜わり、大神神社の別宮とされたそうです。
古い社名は鴨都味波八重事代主命(かもつみわやえことしろぬしのみこと)神社
祭神、鴨・都味波=積羽・八重事代主命(かも つみは やえ ことしろぬしのみこと)
大・賀茂・都美命と似てますね。
大神神社におまつりされている大国主命(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様で、「大神神社の別宮」とも称されています。
国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあり
一般的には「えびす神」という呼称で商売繁盛の神様としても有名です。
鴨都波(かもつば)神社
積羽八重(つみはやえ)事代主命(ことしろぬしのみこと)
どちらも振り仮名ないと読めません。
先のページに、櫛羅(くじら)とか不思議な地名あると書きました。
このくじらで検索してると、もう一つの東征(東遷)とページがヒットしました。
カモタケツヌミは南九州の曽の国から神武天皇に先立って大和の葛城に東遷したと『山城国風土記』には書かれているが、
そのことを証明できるのではないかと思われる地名が葛城の地にあるので、それを提示して考察してみたい。
ひとつは御所市の大字地名「櫛羅」で、現地では「クジラ」と読んでいるが、
漢字本来の字音からすれば「クシラ」でなくてはなるまい。
これは源順の『和名類聚抄』・郡郷名に記載のある大隅国姶羅郡串占(くしうら=串良)に直につながる地名である。
というのは次の理由による。
この御所市大字櫛羅には式内社「鴨山口神社」がある。
「延喜式巻第九・神祇神名上」によれば「名神大」で「月次祭・新嘗祭」を官幣によって行う大社であった。
祭神は「オオヤマツミ」で山の神である事は言うまでもないが、
不思議なのは山の神なのに海鳥である鴨が冠せられていることだ。
しかも鴨山口神社の建つ土地の小字を「大湊」という。
これも海に関する命名そのものずばりであり、いったいどうしてこのような地名になったのか土地の人でも首を傾げるほかないようである。
しかし山城国風土記が示唆するように南九州の曽の国の串良湊(大隅潟湖=ラグーン)から
鴨(鹿子=航海民)族が船団を組んで紀州に至り、紀ノ川ルートで大和の葛城山麓に定住したから、と解けば何ら不思議ではないであろう。
この方の推論によれば、
「鴨都味波」は「カモツアジナミ(ミミ)」と読むべきで「鴨族の中の鴨王」と解釈される。
鴨とは航海民のことだから「航海族の中の航海王」と言い替えられよう。
これに「八重事代主命」を加えて解釈すると
航海族の中の航海王であり、あらゆることに精通した王者
という人物(神格)が浮かび上がってくる。
さて、祭神はもうひとかたおられて下照比売命(したてるひめのみこと)
序文にも至らなかったけれど、長くなるので次回に。
年内に書けるかな…?