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不思議だなと思う心間違い探しが苦にならないこれがものの鑑定に役立ちます

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    北野天満宮の中門は桃山時代の建造物で重要文化財、華麗な彫刻が施されています。
    一般的に「日・月・星」の彫刻がある門を三光門と呼びますが、
    こちらの三光門には「日・月・三日月」で「星」は彫られていないのではないかといわれています。

    というのは、平安京造営当初の大内裏が千本丸太町にあったため、
    旧大極殿が北野天満宮の真南に位置し、帝が北野天満宮を遥拝されたところ
    三光門の真上に北極星が瞬いていたので星は刻まれていないのだと。


    どこにそうした日や月などがあるのか探したけれどわからなかった。
    家に帰り、ネットで調べてみました。



    日(太陽)は天満宮の額が掲げられた背面の梁間に深紅の太陽。
    そして対極の梁間に雲に浮かぶ満月のような黄色い丸、これが星。
    本殿側の金網内の破風に煮h気の兎の中央に三日月があるそうで
    ちゃんと「日・月・星」の彫刻があるのですって。




    「唯一の立ち牛」


    天満宮において牛は天神様の神使(お使い)とされます。
    菅原道真公の生まれが丑年で、亡くなったのも丑の月の丑の日といわれています。
    道真にかかわる伝説や故事には牛にまつわるものも多い。
    境内各所にある神牛は臥牛(横たわった牛)の姿となっていますが、
    拝殿欄間の寿々の上の彫刻は唯一立った神牛が彫られています。






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    2月4日午後1時半から京都山科にある京都刑務所の視察研修の予約を入れてました。

    午前中どこ行く〜ということで、研修部としてツアコンを務めるにあたり、
    伏見大社か北野天満宮で悩みました。
    大型バス駐車場からの距離が決めてとなり、北野天満宮へ案内することになりました。
    この2ヶ月保護司会の団体旅行の準備に追われてました。
    無事終了し、やれやれです。


    この立春の日は初午でもありました。
    2月最初の午の日に詣でることを初午詣といいますが、おもに稲荷社の祭です。

    和銅4年(711年)稲荷大神が初めて稲荷山に鎮座した日が、
    2月初午の日であったと伝えられることに因む伏見稲荷大社の初春第一の祭です。
    平安時代の初めにはすでに習慣となってにぎわっていたようです。

    それがなんで、この北野天満宮の地主神社で執り行われるのでしょうね。





    「筋違いの本殿」
    先の記事、北野天満宮の7不思議の一つです。

    13番の楼門(南門)をくぐった正面に、2番の地主神社があります。
    菅公を祀る本殿はやや西よりに位置しているのです。

    地主神社は北野天満宮御鎮座以前の承和三年(836)に祭られており、
    天暦元年(947)6月9日天満宮創祀の際、地主神社の正面を避けて建てられたためである
    と公式サイトに記載されています。

    初午祭の途中でした、ラッキー。











    主祭神の天神地祇(てんじんじぎ)は、日本国内六十余国に祀られたすべての神々のこと。
    承和3年(西暦836年)2月1日遣唐使のために天神地祇を祭られたのですね。


    Wikiによれば、地主神社とは、
    神社や寺院が建立される際に、その土地の地主神を祀るために建立された神社。
    神社の境内に末社として建てられている場合や、寺院に隣接して立地している場合がある。
    寺院に隣接している地主神社は、本来は隣接する寺院の一部であったのが、
    明治の神仏分離で独立した経緯のあるものがほとんどである。



    地主神社の右に見えてた鳥居です。
    境内図には4番明月舎と書かれてる上あたり



    【文子天満宮】
    菅原道真公は失意の中で大宰府で生涯を閉じましたが、
    その後京の都は疫病などの災厄が流行し道真公のたたりであると人々は恐れました。
    942年(天慶5)右近七条坊に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女の巫女に
    道真公の神霊より「わが魂を右近馬場に祭れ」とのお告げがありました。
    文子にはとても右近馬場にお社を建てる力がなかったので、
    とりあえず自宅に小さな祠を建て道真公の御霊をお祀りしました。
    それが何度か移転して現在の境内の「文子天満宮」であり、北野天満宮の発祥といわれています。
    文子天満宮には、道真公が祀られ、文子さんが祭られているわけではありません。

    楼門左側には


    東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ




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    この週末は特に関東圏から東北にかけて大雪だったようで、多くの方が交通マヒに遭遇された様子。

    金曜日夜、関西の平地でも積もるだろうという予報でした。
    8(土)金剛山雪中登山後、香楠荘で鴨鍋宴会というパーティに参加させてもらうべく予約いれてました。

    ちゃんと登れるだろうかと不安いっぱいで土曜朝、目が覚めたら
    多少雪は積もってましたが想像ほどひどくなかった。

    スマホ画像から金剛山での雪の画像をアップしたら、
    DIVAさんがコメント寄せてくださったので、どんな行程だったのかお知らせしておきます。
    いつか金剛山雪中登山企画される方の参考になればと。



    2年前は、登山口からヒィ〜ハァ〜いいながら登りました。
    リュックに宿泊荷物を背負っての登山はかなり苦しかったです。

    今年は天気予報がやばかったので、ロープウェー前バス停登り口から伏見林道を登ることになりました。
    なだらかなコンクリート道がダラダラ続きます。
    山頂への車道でもあるので、わだちが残っています。

    急坂ではなくとも登り道が続けばしんどいし暑くなります。
    すでに1時間以上歩いて、前を行くAさんは上に着てるジャケットを脱いで腰に結んで歩きました。

    しばらくして、あれ〜、ジャケットが無い!
    落としたことに気づき、今来た道を戻ることに。
    私はおまけで一緒に下り、8名はそのまま頂上へ。

    どこまで戻っても落ちてない。
    下りのすれ違った人が拾ってくださったようで、
    どんどん下られるのを、必死で追っかける。

    やっと追いついて、もう引き返した道をまた登る気力は残ってなかった。
    すでにくたくたになってました。


    ということで、ロープウェーで登ることに。

    ロープウェー乗るときにはアイゼンを外さないといけません。
    着けたり、外したり、めっちゃ面倒です。

    ロープウェーの金剛山駅に着くと樹氷がステキです。
    いくらでも写真撮りたくなります。







    香楠荘のお風呂は温泉ではありませんが、金剛の湧き水が古代檜でまったりいいお湯です。


    そしてお楽しみの鴨鍋。
    蕎麦をいれて鴨南蛮も美味しい。



    宿泊した今日の朝、6時半ロビー集合で、葛木神社と国見城跡へ。



    夜中にまた降り積もったようで、新雪で覆われたダイヤモンドトレイルを歩くのは楽しかった。
    小形動物の足跡だけで、まだ誰も人が踏んでいない道。

    葛木神社の参道はとくに神域となり荘厳で神秘的でした。



    8時20分頃に宿舎に戻るまで約9000歩の雪中歩行。
    朝食を戴き、またお風呂に入って、10時のロープウェーで下山。
    下につくと、そりを抱えた家族連れが大行列でした。
    車で来られた人は駐車スペースが無くて困ってられました。
    こんな日は、手前で車を置いて、ロープウェー前までバス利用がおススメです。

    ちなみにロープウェー金剛山駅から葛木神社まで約40分かかります。


    ココまではスマホ撮影でピンボケも多数でした。
    画像いただきました、ありがとうございます。




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    2月8−9日の週末を金剛山で過ごしましたが、
    標高1,125mのこの山は、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にあります。

    最高地点は葛木岳、御所市の葛木神社の本殿の裏にありますが神域です。
    大阪府の最高地点は、1,053mらしいです。

    DIVAさんが、一等三角点のある山として日本一低い蘇鉄山のことをコメントで書いてくださいました。
    早速登頂してきました。

    母がすぐ近くの病院に1月半ばに転院なったので見舞いを兼ねて。







    標高6.96mの築山で、大浜公園内にあります。

    確かに山頂には蘇鉄植わってました。
    山の周りをぐるっと一周しても100mあるのかな…

    ちなみに、天保山も最低山としては有名ですが、こちらは標高4.53mなれど二等三角点。

    1879年(明治12)大浜公園開園時、大阪湾の展望のための築山として整備されたようです。

    入園料は無料でしたが、駐車代金2時間以内200円がかかりました。

    蘇鉄山の北側麓には




    実は、大阪で一番高い山と低い山を制覇するだけが目的ではありませんでした。

    実は数年前、阿波座にある高潮ステーションを訪れた時、
    堺市大浜公園蘇鉄山にある石碑「擁護璽」レプリカを見ました。
    その時の記事は→2011-06-19 津波・高潮ステーション

    1884年(安政元年)安政南海地震に関する石碑です。
    実物を見たいと思っていたら、やっとそのチャンスが巡ってきました。

    擁護璽 ようごじ と読みます。

    神から賜った、璽(おしで)。現代語訳は以下の通り

    嘉永七年六月十四日(1854)地震があった。
    11月4日、5日にも強い地震があり、沖の方が恐ろしく鳴り響き、津波が起って川筋へ激しく入り込み、また引きも激しく、多くの船の碇綱、艫綱切れ、あちこち突きあたって橋は八つも壊れ言いつくせないくらい。
    地震と津波で多くの家、土蔵が壊れたが、里人たちは神社の広場に集まり避難した。お陰で怪我をしたり死んだ人が居なかったので大変ありがたいことであった。
    他所の入江や川筋では避難のために小舟に乗って安心していたが、津波によって大船が入込み、下敷きとなって命を落とした者数知れず。

    どんなことがあっても、地震が強い時は船に乗って避難してはならない。
    宝永年間にも今回と同じようなことがあったと聞いている。
    この様な例で明らかなように、地震が強い時は、津波があることを知るべきである。
    堺の人びとが無事であったことが有りがたく、産土神の神明宮、三村宮、天満宮にその喜びの幣を捧げ、後の世も災いが無いことを祈って賜ったおしで(璽)をここにまつるのである。


    宝永南海地震で大きな被害がでてが、この教訓をいかせず大阪では2000人はなくなった。
    しかしこちら堺は、教訓を言い伝えていたので、
    住民はみんな神社の庭に避難し、死者もけが人も出さなかったと書かれています。

    またまた、日本海の佐渡でダイオウイカが水揚げされたと、今ニュースでいってます。
    なんか深海でおこってるかも…


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    まだまだ超寒い(; ̄ェ ̄)

    今朝未明、スノーボードハーフパイプで銀と銅メダル獲得。
    まだ十代の平野 平岡コンビやりました*\(^o^)/*

    緊張でこわばってない平常心がスゴイわぁ

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    ロシアに隕石落ちて大ニュースなったのはちょうど1年前。
    今日2月15日の金メダル受賞者に隕石メダルが特別に贈られるのだそうですね。



    夜中3時前に目が覚めたので、フィギュアスケート男子見てました。
    やりました、羽生結弦クン *\(^o^)/*

    日本時間では2/15未明、該当しないのかな?


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    世間はソチオリンピックと大雪のニュースで大賑わいです。
    そうしたニュースの中で京都刑務所の悲しい事件、普通は大ニュースに埋もれてしまいがち。

    たまたま2月4日に、視察研修で京都刑務所を見学したばかりだったから、
    goodタイミングか bad かわかりませんが目に留まりました。

    11日、単独室にいた30歳代の男性受刑者が首をつった状態で見つかり死亡した
    という発表。
    調べてみると、洗面台に靴下を使っての自殺だったようです。

    そして、他にも事件がヒットしました。

    2014/01/16 時事ドットコム
    受刑者に便宜を図る見返りに賄賂を受け取る約束をしたとして、
    京都地検は16日、収賄容疑で京都刑務所刑務官今西良太容疑者(27)を、
    贈賄容疑で受刑者3人を逮捕した。
    地検は認否を明らかにしていない。




    いままで多くの刑務所見学行きましたが、説明される刑務官、女性は初めてでした。
    これ以外、あまり印象残ってないのでブログには何を投稿しようかなと逡巡してました。

    2月4日に説明受けたとき、この質問でたらどうしようと戦々恐々だったことでしょう。
    しかし、私は事前に全く知らず、何一つ聞く事が出来なかった…。
    まぁ触れてほしくないだろうから、それでよかったんだけど。

    ジャーナリストではないとは言うものの、
    何も舌鋒鋭く追及する必要はないものの、
    知ってて聞かないでおくのと、全く知らないのは違います。

    研修担当者として物見遊山ちゃうねんから仕事足りませんでした。

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    くるみのママさんのブログに載ってたので早速お試し。
    エビはなかったかわりに
    すき焼き用の牛ロースを使った。

    味はイケテて、美味しく平らげました。
    アボカド加熱するとそれとはわからなくなる。
    トマトは酸味がよかった。

    ジャンプ団体、銅メダルよかったですね。

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    今日は24節気の雨水だったのですね。
    あの大雪がやっと溶け始めます。
    各地に思いもよらない大きな被害をもたらしました。
    お見舞い申し上げます。

    知人は信州旅行二泊三日の帰る日に中央線が止まった。
    やむを得ず二泊伸びたそうです。
    快適なホテルでよかったけど
    停電に遭遇したり、車中泊なら最悪ですね。


    春の陽気に雪が雨に変わり、氷がとけて水になる頃
    雨水

    土の中から木々の枝から芽がでて新しい命が芽吹く。
    これはうれしいけれど、花粉症が(ー ー;)

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    先月、中国からのお客さんがお土産にお茶を下さった。
    種類はもちろん、いくらぐらいのものかも知りたい。
    なんとか読み取れた字を入力してググってみたら→徐聘号
    参考工资:1500元―10000元 って日本円にしたらいくらになるんだろう…

    陳年老茶(ちんねんらおちゃ)って、いわゆる今流行りの黒烏龍茶だったようです。

    軽〜いアメリカンコーヒーのようで飲みやすい。
    黒烏龍茶はカフェインがゼロらしい。

    烏龍茶の世界にもヴィンテージ物が存在し、それが老茶。
    さらに検索を重ねて発見したことは、びっくりでした。

    市場に出回っている9割以上は偽物だと言われるぐらいかなりブラックなマーケットのようです。

    偽物の老茶には大きくわけて二つのパターンがあります。

    まず一つ目。
    そもそも老茶ではないものが売られている。
    これは製茶に失敗した烏龍茶に強い焙煎をかけ、味をごまかし老茶として出している最悪のパターン。
    ただし、この場合、烏龍茶を飲み続けある程度味がわかっている人ならすぐに見分けがつくらしいが、
    私にはわからない…(≧∇≦)

    2つめは、年数を誤魔化している。
    本物の老茶ではあっても、5年のものを10年と偽っていたりする。
    正直このパターンに関してはプロでもわからない。
    烏龍茶の保管状態や焙煎の入れ具合、熟成の進み方はそれぞれ違うので
    7〜8年のものを10年と言われたところで嘘かわからないらしい。


    となると、この頂き物は、どうなんだろう〜

    昔と違って、今の中国って、どこまで信じていいのかすらわからなくなっているから。

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    先週月曜日、冷蔵庫を買いました。
    モーター音が高くなり、咋晩秋から冷凍室が使えなくなってました。
    暑くなるまで、消費税が上がるまでと思ってましたが、ついに決断した次第。
    それが今日日曜配達予定。
    朝から今の冷蔵庫の中身を取り出したり周りを片付けたり、設置が手間取らないよう準備してました。

    ところが10時前にかかってきた配達担当者からの電話によると、
    なんと今日の午後3−6時配達だという。
    どんなに交渉しても早めてもらうのは無理だった。


    というわけでその待ち時間に、
    もう一つ中国からのお客様にいただいたお茶について書くことにします。

    碧螺春(へきらしゅん)

    難しい漢字が並んでます。
    碧という名前の知人がいました、みどりさんでした。
    螺、ほらがい、法螺貝で見た漢字だと入力して、碧螺春がヒットしました。



    春分から穀雨までの春一番に、一芯 一葉で摘まれます。
    形が螺旋状をしており白い産毛が多いのが特徴です。

    龍井(ろんじん)茶に並ぶ、中国で二番目に有名な緑茶。
    茶畑ではなく梅、桃、杏、みかんなどの果樹の下に木が植えられ
    その生育環境により、碧螺春はどんどん甘くなっていくのだそうです。

    夜になると、果樹の実から甘い蜜や香りが空気中にただよい、
    下に植わったお茶の葉に付着するのですって。
    わずかではあっても花のような香りがあり、淡く甘い後味が残るのが碧螺春。

    清明節(4月5日辺り)より前に採れたものは「明前碧螺春」と呼ばれ、
    最高に美味しいと言われています。


    いっぽう龍井、昔の人はこう表現したそうです。
    「ひそやかな香りで押し付けがましくなく、その口当たりは限りなく淡い、
    飲み干せば歯間に爽やかな感覚が広がり、あるかなきかの息吹を感じる」

    爽やかですっきりした味わいの中に釜炒りならではのまろやかな香ばしさがあります。

    ふ〜ん、なるほど〜

    利き茶、ってたぶんあると思いますけど
    めったに口にしたこと無いものを見分けられないですよね。

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    茨木市にある溝咋神社のウェブサイトは、広告が邪魔。
    今日初めて、そのウェブページを画像保存する方法をためしてみました。

    何度もこのページは見てたのですが、今日初めてアクセスカウンターに気付きました。
    キャプチャ画像には 01490 となっていますが、
    今朝最初にアクセスした時は 01489でした。

    神社のサイトで、こんなふうに広告が覆いかぶさっているのは初めてです。
    せっかくの窓口が開かれてないので、アクセス伸びないのですよね。

    覆いかぶさる広告を消すためには、ヤフーIDが必要と書かれてありました。
    一つづつこの広告を表示させないという手順で消せます。
    しかし広告主はた〜んとあるのです。
    消せども消せどもこのページがちゃんと見れるまでやってられなかった (--)

    さらに残念なことにサイドバーのワードにはリンク貼られてないのです。
    HOME
    境内紹介
    歴史・社宝
    年中行事
    ご祈祷案内
    アクセス

    今日、思いつきました。
    こちらのトップページのURLは
    http://www.geocities.jp/mizokuijinja/

    一番最初に、このサイトにたどり着いたときは「暁の鏡」を検索していて
    http://www.geocities.jp/mizokuijinja/sub2.html

    ということは、URL の最後、/sub2.html の数字を変えればいいんだ!

    数字を5にして、アクセスの地図が見えました!



    1月13日に初めて参拝してからすでに1ヶ月以上過ぎてます。
    なかなか本編にたどりつきません。

    1月にすでに2つ記事にしました。
    しかし肝心の本編がまだ何一つ語られてなかったのです。
    その後も、「石生の水分かれにある いそべ神社」はこのブログの人気記事。
    なんでそれほど知られていないマイナーな神社が…
    きっと天日方奇日方(アメノヒカタクシヒカタ)命が早く知らしめよと
    メッセージをおくられているような気がします。


    2014-01-15 この木の名前は知らないけれど、この木は何でも知ってる気がする


    2014-01-28 溝咋神社の不思議、その結界
     


    ここまでで予想以上に30分以上かかったので、これから仕事行ってきます。
    つづきは後ほど。


    0 0

    高槻の今城塚古代歴史館は昨夏訪れた時に記事にしました。
    2013-08-19 いましろ大王の杜
    2013-08-22 日本の兵馬俑は、ちょっと言いすぎや、けど
    2013-08-27 三島と藤原氏、そして百済

    当時は継体天皇と藤原鎌足が気になってました。
    ところが10月に兵庫県の石生にある分水界水分れを見学したところ、
    ちょうど其処にはいそ辺神社があり参拝して、急転直下私の脳裏に天日方奇日方命が突き刺さりました^^

    それまで全く存じ上げない神様のお名前だったのです。
    なんとも不思議なお名前ではないですか。

    たまたま今週1週間、gooブログではアクセス状況を詳しく見ることができました。

    2月26日 ブログの開設から3231日 記事数全2449件
    ページごとの閲覧数
    1 トップページ 67 PV
    2 石生の水分かれにある いそべ神社 28 PV
    3 プラダ・ナイロンバッグを見比べてみると・・・ 26 PV

    お正月前後から何度かふれているように、
    「石生の水分かれにある いそべ神社」は2月26日もたくさんアクセスいただきました。

    そのいそ辺神社に初めて参拝して、社殿前に拝司が掲げてあるのをみました。
    人生で初めてその拝司を声を出して唱えてお参りしました。

    掛けまくも、畏き 、
    ○○神社の大前(おおまえ)を、拝(おろが)み奉りて、
    恐(かしこ)み恐みも白(もう)さく。
    大神達の、
    広き厚き、御恵(みめぐ)みを辱(かたじけな)み奉り、
    高き尊き、神教(みおし)えの随(まにま)に、
    天皇(すめらみこと)を仰ぎ奉り、
    直き正しき真心もちて、
    誠の道に、違(たが)うことなく、
    負い持つ業(わざ)に、励ましめ給い、
    家門高く、身健(みすこやか)に、
    世の為人の為に、盡(つく)さしめ給えと、
    恐み恐みも白す。

    こうして天日方奇日方命とご縁が繋がったのかもしれません。
    以前より、事代主命が三島神社で祀られてるので、そのうちお参りしようとは思ってました。
    その三島鴨神社に程近い茨木市の溝咋神社の祭神に天日方奇日方命を知り、
    1月13日の成人の日に参拝したのでした。

    なぜ記事が書けないかというと、調べれば調べるほどワケわからんようになるのです。

    その一つが最初の地図です。
    今城塚古代歴史館で撮影したものです。


    天日方奇日方命は事代主神(ことしろぬしのかみ)の子。
    母は溝咋耳命の娘、玉櫛媛命(たまくしひめのみこと)
    活玉依媛(いくたまよりひめ)ともよばれます。

    妹が、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で神武天皇の皇后になりました。

    大和のコトシロヌシが熊鰐に姿を変えて、淀川を下り、三島のタマクシ姫のもとへ通ったのだと。



    当時の淀川はこういった流れだったとすると、どのようにして川をくだったのでしょう?
    川は何度も氾濫したりして多少は流れを変えていることでしょう。
    この再現図に近いとすれば、玉川を遡り、西河原あたりで安威川と合流しているので、
    そこで安威川に入り下るのかしら?

    溝咋神社のある安威川を調べてみると


    2014-01-25 三島鴨神社と三島暦


    総持寺の近くには疣水イソラ神社があります。
    うちの孫達が宮参りでお世話になった彼らの氏神様。
    2009-08-09 エソラとイソラへ


    この磯良神社は神功皇后ゆかりの神社で、かつては新屋坐天照御魂神社(西河原)の境内社だった。

    新屋坐天照御魂神社は3つのお社がありまして


    なんか不思議でしょう〜

    まだまだ続きます。とりあえず今朝はここまで。


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    溝咋神社には絵馬を掲げる建物があります。
    神楽を上演する舞台も設けられかつてはここで神楽の上演があったのですね。

    一つの絵馬越しに写ったお社が手力雄神社(たちからおのかみのやしろ)
    そのお社をちゃんと撮影するのを失念してました。

    ちなみに本殿もなぜか撮影してませんでした。
    下の絵馬を撮影したものと一緒に屋根が写っています。




    何から書こうか思案してました。
    調べれば調べるほどワケ分からんようになって収拾がつかなくなって…



    神門をくぐって、左手に手水舎があります。


    松の木の後ろに写っているのは、池の真ん中の末社で木花開耶姫命社。
    ご祭神は不思議な取り合わせで
    木花開耶姫神このはなさくやひめのかみ(安産子育ての神〉
    級長戸辺命しなとべのみこと    (風の神〉
    市杵嶋姫命いつきしまひめのみこと 〈農耕治水の神〉
    菅原道真公 〈学問の神〉
    《現在の星見町(旧二階堂村)のご祭神が合祀されている》
    歯神天満宮ともいわれ、そのように記載されている地図が多かったです。


    手水舎に並んで、絵馬殿があり、その先に手力雄神社がありました。
    ご祭神は、手力雄神たちからおのかみ 〈力の神〉
    《現在の玉島(旧十一村)の了専(石崎喜兵衛)さんも祀られている》

    なんで溝咋神社に手力雄神がおられるのだろう。



    2/28にエントリーした先の記事で紹介した図の天石門別神社が気になる。


    茨木神社の奥宮として境内に鎮座してました。
    天手力男命が主祭神ですが、もとは社名のとおり天石門別神(磐間戸命)を祀っていた。
    大同2(807)年、坂上田村磨が荊切の里を作った際に地主神として祀られたようです。

    この天石門別神も知らない神様でした^^

    天石門別神(あまのいわとわけのかみ)は、
    古来より天皇の宮殿の四方の門に祀られていた神で天太玉神の子ともいう。

    天孫降臨の神話において、瓊瓊杵尊と共に随伴した神々のうちの一柱。
    天照大御神より思金神、天手力男神と共に八咫鏡の祭祀を任命された神。

    瓊瓊杵尊が天磐戸を引き開け八重雲を排分けて降し奉った時の天と地の境にある門。
    天上の出入り口となる門のことで、天岩戸神話で天照大御神が籠もった岩戸ではない。

    古事記には、別名が櫛石窓神、豊石窓神であると記されている。
    「天石戸別神、亦名櫛石窓神謂、亦名豊石窓神、此神者、御門之神也」

    加えて「御門之神也」と記され、古の宮城の内裏その四方の門に祀られていたという。

    門は、外部と内部を隔てると同時に互いを結ぶ接点となるという性質から
    その境界にあって外部から侵入しようとする悪霊や災厄を防ぐ役割をも持つともされる。


    櫛石窓神(くしいわまどのかみ)
    豊石窓神(とよいわまどのかみ)

    天石門別神(櫛石窓神・豊石窓神)を祀る神社に
    天岩門別神社(岡山県美作市)、櫛石窓神社(兵庫県篠山市)、
    大祭天石門彦神社(島根県浜田市)、天石立神社(奈良県奈良市)などがある。

    石生の水分れにあるいそ辺神社の奇日方命(くすひかたのみこと)ってどなた?
    と調べた時、例えば、

    滋賀県蒲生郡竜王町にある石部(いそべ)神社は江戸時代は磯部大明神と称し
    『特選神名牒』は「久斯比賀多命」
    これって くしひかた ですよね。
     

    天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)は
    別名:櫛甕玉(くしみかたま)、櫛御方命(くしみかたまのみこと)
    あるいは鴨主命といい、三輪君・鴨君の遠祖であったり
    三輪明神(大神神社)の大田田根子命の父もしくは祖父だとか。


    お名前の前半:天日方、後半:奇日方
    二つの神様が一緒になってるのかも…


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    なんとか接着を試みたけど無理だった
    花瓶に挿してみます(ーー;)

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    ほころび始めました(^O^)/




    後ろに写っているのは
    立春に参拝した北野天満宮の破魔矢
    黄金の梅が咲きほこってます。

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    ソファに腰かけたゆうりの頭の上に赤い張り紙が。



    ひな祭りは昨日でしたが、今日エソラママから画像届きました。

    幼稚園で作ったらしいです。
    画伯は急激に進化してるみたい。






    彼が通う幼稚園近くに西国街道の郡山宿本陣の史跡があります。

    保護司会と協力雇用主会合同の視察研修で、
    浪速少年院へ行った帰り、本陣見学行ってきました。












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    2月の終わり頃一週間前の話ですが、お隣の門真市の保護司さんから差し入れ戴きました。

    まむ多の楠どら、どら焼きです。
    超美味しかったです。

    それにしても変な名前の店名だと調べてみました。
    その和菓子屋さんのある地の旧名が茨田(まんだ)郷という水郷地帯。
    旧蹟茨田の堤が近くにあり、近畿自動車道の大東鶴見出入り口は茨田(まった)と呼んでます。

    むかしむかしは、まむた と呼んでいたことが、まむ多の由来でした。


    茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)は、
    仁徳天皇が淀川沿いに築かせたとされる堤防です。
    5世紀頃、淀川の洪水を 防ぐため渡来人などの技術を用いて築かれました。



    1年前に、淀川堤防を歩いて気になったことを記事にしました。
    2013-01-14 とうとうと流れる淀川、実は

    その時に、この仁徳天皇の築造の際、困難な箇所が2ヶ所あり、人柱を立てた地が2箇所あることを知りました。

    「強頸の絶間」は大阪市旭区千林町、
    「衫子の絶間」は寝屋川市太間町だといわれています。

    そのうち見学行って記事にしようと思ってたら、あっという間に1年が過ぎ
    先にどらやきがやってきたという次第です。

    天皇は夢に「武蔵の人強頸(こわくび)と、河内の人茨田連衫子(ころもこ)の2人を以って河泊(かわのかみ)を祭れ」
    との神のお告げを得て、2人を川に沈めようとしたのです。

    強頸は悲しみながらも人柱となり川に沈んだ。
    しかし、衫子は身代わりに匏(ひさご)を水中に投げ入れ神意をはかり死を免れたと伝わります。

    つまり水に投げ入れたひょうたんが沈んだら私も水中に身を投げるが
    浮いたら沈む必要なないみたいなことを言って助かったのです。
    ひょうたんは水に浮くのが当たり前ですもんね。




    この地図の上の方、三島、かつては御島に三島鴨神社も祀られたのですが、
    そこよりも下流の淀川新橋近くの寝屋川に絶間橋という地名が残っています。



    茨田の堤の完成により河内平野の農耕は急速に発達するも、堤はその後も度々決壊修築されています。
    淀川の堤防の決壊の記録は百数十回にも及ぶとのこと。

    近世になって豊臣秀吉の文禄堤の築造や淀川や大和川の治水工事が進つれ、
    この茨田の堤の役目も終わったのでした。

    この僅かに残された「茨田の堤跡」は1973年(昭和48年)大阪府の史跡に指定されています。




    今回の記事で一番気になるのは
    河内の人茨田連衫子ころもこ)が瓢箪で助かったという言い伝えです。
    秦氏 ひょうたん などで検索すると、話はどんどん歴史のミステリーにはまり込んで行きます。

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