先の記事の、羽黒センターから月山の弥陀ヶ原までの道は狭くて対向車が来たら大変。
庄内交通の黄色い路線バスともすれ違いました。
観光バスとすれ違ったときは、中には白衣装のいでたちの年配者が多く乗っておられました。
この方々は羽黒山から月山へ歩いていくのがしんどい方々で、お山詣りの方と現地で合流するのに途中バス移動らしいです^^
出羽三山神社境内に芭蕉の像がたってます。
白い衣装の方々は、出羽三山お山詣りの方で、あちこちでお見かけしました。
やまがた庄内観光サイトでは
「出羽三山 正式参拝コース 2泊3日」
出羽三山へ行くのに、仙台空港から東北自動車道、山形自動車道と乗り継ぎ、途中で高速降りて一般道を走るのがへぇ~でした。
月山IC(山形県西村山郡西川町)、湯殿山IC(山形県鶴岡市)
この間は未だ建設されておらず、月山道路で結ばれています。
古来より、山形-鶴岡間は「六十里街道」と呼ばれ、険しい地形のため九十九折の峠道。
昭和28年に2級国道112号に指定され、40年に一般国道。
月山道路は、多くの犠牲者を出しながらも1981年7月に全長30.9km開通するも、日本有数の豪雪地帯であり開通から1990年までは、冬季の夜間は通行止め
この六十里越街道の歴史をみるととても興味深い。
「庄内平野の上に大きな月がその頭を出したような形の月山と、その稜線につらなる羽黒山・湯殿山の姿は東北の霊山と呼ぶにふさわしい神々しさをたたえる。
古代の人々はその峰々に神々が宿っているものと信じ、そこを神域として、己が現在犯している罪や汚れを清め祓う神聖な場所と考えていた。
また、人が死ぬとその魂は深山に移り住み、そこから我が子孫の繁栄を見守っていてくれる。ことに夜中に月明に反射して闇の中に白く浮かびあがる月山を、このような事から『月の山』とよばれ、”死霊の集まる山””阿弥陀如来の極楽浄土”としてのイメージを強く与える事になったのであろう。」
羽黒山の開山は、約1,400年前、第32代崇峻天皇の皇子である蜂子皇子が三本足の霊烏に導かれ羽黒山に登拝し、羽黒権現を獲得、山頂に祠を創建。
「古代における出羽国の歴史は朝廷による蝦夷征服の歴史でもあった。蝦夷の反乱がおきるたびに中央から幾たびか征夷軍が送られた。坂上田村麻呂の派遣延暦十一年(792~二度に渡って征討する)もその一つである。
この時代にあって蝦夷の降伏を祈願したのが半月に似た山「つきやま」と呼ばれた月山の神であった。新天地をめざす人々に安らぎの心を与え、平和と豊作を祈り人々の信仰の的となっていった事であろう。」
詳しくは→六十里越街道の歴史
月山・湯殿山・羽黒山は平安時代の昔から出羽三山と称せられ、東北における修験道の中心地として一般民衆の信仰が厚く、東国三十三ケ国の総鎮守として紀州熊野・豊後英彦と並び称された霊山であった。
紀伊熊野の宗教道はすでに世界遺産に登録されてます。
この紀州熊野・豊後英彦と並び称された、東北地方の霊山が出羽三山。
西の伊勢参りに対峙して、出羽三山を回峰参拝するのが「お山詣り」であった。
今までにも宗教心からではなくて物見遊山でスポット的に巡った記録残してます。
紀州熊野遍路道(2006年6月 熊野詣
和歌山は近いのでその後も何度か訪れ数々の投稿記事あるも探しきれない
スペインのサンチャゴコンポステーラへの道(2007年1月サンチャゴへの道