Quantcast
Channel: 秋麗(あきうらら)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3609

運慶と快慶

$
0
0
今日のニュースで、運慶と快慶の仏像が国宝に指定されると知りました。
先週、東大寺の南大門で金剛力士像を撮影してきました。
すでに国宝指定されてる、8メートルを越える大きな像で迫力ありました。

しかし
風雨にさらされているため埃っぽいし、
おまけに金網で囲われていて写真ではその迫力伝わらない。






ネット検索でしっかり見える画像もらってきました。





実に力強い。

フェノロサは「日本人にとって運慶と湛慶は、欧米におけるミケランジェロに似た存在である」といいました。

この金剛力士像は1203年の作品です。

「いいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えた歴史年号1192年。
今ではほとんどの歴史教科書が1185年となってるそうです。
壇ノ浦の戦いで平家を破った年、1185年は
源頼朝が朝廷に日本全国への守護・地頭の設置を認めさせた年です。

実質的な支配が頼朝に移り、平安の貴族趣味から離れます。
武士の荒々しさを前面に出した作風は時代を反映したものでした。


1988年に始まった大修理で像の作者が明らかになりました。
吽形像の中から、大仏師定覚と湛慶、小仏師12人を記した経巻が見つかり、
阿形像には大仏師運慶、快慶の名と小仏師13人である旨が記されていました。
そしてすべての仕事を統括する大プロデューサーは運慶だったと専門家は推定しています。


運慶の父は興福寺の仏師康慶で、運慶はその父の下で仏師教育を受け
興福寺で“勾当(こうとう=下級の役職)”として仏師の活動をしていました。

快慶も同じく、仏師康慶の弟子でした。
当時、仏師をめざす者はこぞって京へのぼってました。
しかし快慶は天平の仏像に強く惹かれていたことから奈良仏師の棟梁であった運慶の父康慶の弟子に。

快慶は運慶ともども、南都で衝撃的な事件に巻き込まれます。
治承4年・1180年、平重衡の兵火により南都焼き討ち、壊滅的な被害を受けます。
東大寺も興福寺も焼けてしまいます。
そのときの兵火で焼け残ったのが、東大寺の八角燈籠、そして興福寺の阿修羅像です。



頼朝やその幕僚たちは、源平盛衰の戦で亡くなった兵士たちの菩提を弔うために、多くの寺を建立・開山しました。
なかに寺や檀家たちを慰めるため、あるいは世の平安を願うために仏像を安置。
戦乱は収まったものの、まだまだ世の中は落ち着いていない時代でした。

平家が滅び、興福寺の慶派仏師たちは鎌倉へ。
そして、東大寺や興福寺など南都の大寺院の復興造仏事業にたずさわります。


東大寺の南大門を守る金剛力士像は、わずか69日間で製作されたと聞くと驚く。
当初は無理だと思われたその大きなプロジェクトに、
十数人の仏師を集めて分業して製作し、最後に合体させる方法で仕上げられました。

810年が過ぎた今も、金剛力士阿吽像は向き合い東大寺を固く護っています。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3609

Trending Articles