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午前中に堺の病院にいる母を見舞ってまだ昼までに間があった。
以前からずっと気になっている、赤留比売(あかるひめ)神社へ行くことにした。
ナビではなぜか地名入力しようとしてもできなかった。
多分平野公園の西側だったと、平野公園で設定して向かう。
公園近くで年配女性2人に尋ねるも知らないという。
一方通行とかで近づきにくいし、あまり知られていないことにビックリ。
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これは昔の地図ですが、赤留比売神社が平野郷の東外にあるのがわかるでしょうか。
神社近辺は昔ながらの村の旧道で細く車通行に適していない。
公園の西側に行きたくとも行けない。
公園ぐるりを南→東→北と周り公園北側に駐車して探索開始。
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石橋があった。
帰ってから調べてみると、かつて松山池だった。
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レンガで囲った花壇は草ボウボウ、さらに進むと小高い丘。
これが平野郷の環濠跡だった。
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2015-02-22 大坂の陣ウォーキング 真田幸村コース では
杭全神社は行ったけど、あかるひめ神社は行かなかった。
上に登ってみると
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やっとお社が目に入り、西側から入ることが分かったので廻ってみる。
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工事の軽トラが数台止まってて大勢の男性たちがお昼休憩に入るとこだった。
提灯もいっぱい飾られてるし、テントも設営されてるし、
祭が終わったのか始まるのか?
今日は撮影しそびれたので画像拾ってきました。
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西にある鳥居から入り、赤留比売神にあいさつした。
社殿扉は固く閉ざされ、お賽銭箱もなかった。
あんなに工事人夫さんいるのに、地域の人あまり知らない?
神社を知らない人たちは平野環濠外側の住民だったのかもしれない。
しかし、社殿横や背後から撮影した画像はどれも清々しく、別に見捨てられた神様でないこともよくわかった。
でもなんか不思議な感じがして、帰ってからずっと調べてました。
赤留比売神社、現在は杭全(くまた)神社の境外社ですが、
これは大正3年からのことで、かつては住吉大社の境外末社だった。
8/1の住吉祭に、いまでも桔梗の造花をこの神社から捧げられるらしい。
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住吉大社の夏祭りは、731年から記録が残っていて、
戦国時代には宣教師ルイス フロイスも壮麗な祭を見学し本国に報告しています。
神輿が堺の宿院頓宮まで渡御され、宿院の飯匙堀で荒和大祓が執り行われます。
そこでこの桔梗造花が供えられるのですね。
住吉祭 神輿渡御(みこしとぎょ)の歴史 に
享保 8年(1723)平野七名家の桔梗造花献上が再興
荒和祓桔梗献花口上覚 という記載がありました。
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住吉大社の南、和泉の国との境界の宿院頓宮近くに開口神社。
すみよっさん東側、河内の国との境界近くにアカルヒメ神社。
境内というよりは神域の端を護るってかんじでしょうか。
もう一度地図見てもらいましょう。
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喜連村には楯原神社とありますが、
かつて十種神宝で記事にしたことありますよ~ 2009-02-15
それにしても、なんで桔梗なんやろう。
ちなみに、住吉大社の社紋は四菱で、神戸の住吉神社が桔梗紋のようです。
なんか深~い闇か歴史ありそうですね。
三井寺の新羅神社考より引用させてもらいます。
太字は当ブログ管理者
平野本郷の南東の角、百済橋の南に平野公園があり、神社は公園の中にある。公園の西半分は旧環濠跡である。神社の前に「杭全神社飛地境内・式内赤留比売(あかるひめ)命神社」と刻まれた大きな石柱が立っている。拝殿は入母屋造、本殿は流造で朱色である。祭神は赤留比売命。
神社の説明書と『杭全神社』によれば、赤留比売命神社─平野環濠都市遺蹟─当社の祭神、赤留比売命は新羅から来た女神で天之日矛の妻と伝える。当地を開発した渡来氏族の氏神として祀るが、創建は詳らかでない。平安時代につくられた延喜式神名帳には、当社が記載されている。かつては住吉大社の末社であったために七月三十一日の住吉の例大祭「荒和大祓(あらにごのおはらえ)」には当地の七名家より桔梗の造花を捧げるのが慣例であった。大正三年、他の神社と共に杭全神社境外末社となり今日に至っている。
当社は、昔は平野流町の門外字中山にあったがその後平野郷町三十歩に移座した。俗に三十部神社と呼ばれているが、これは応永の頃、僧覚証が旱魃に際し祈雨の為法華経三十部を奉読し霊験があったのでこの名称が起きたといわれている。その為に古来雨を祈る神といわれている。
平野区が百済人の住んだ町であることは、百済に係わる名称が残っていることからも推測できる。すると百済の人々が新羅系の神を祀ったのか、あるいは、新羅系の人々の居住が先にあり、その後、百済系の人々の入植があったのかのどちらかであるが、赤留比売命は天之日矛の妃で、日光感情伝説をもつ「日妻(ひるめ)」とみれば、日神を祀る巫女であり、古代に祀られた土着の神であると思われる。新羅系の人々の居住地に比較的後の時代(七世紀か)に百済系の人々の居住があったのではないかと考えられる。
『住吉大社神大記』によれば、赤留比売も下照比売も住吉大神の御子神となっている。比売許曽神社の祭神が阿加流比売(赤留比売)から下照比売神に変わったのに当社の神は赤留比売神で変わらなかったのは新羅寺を神宮寺とする住吉大社との関係からであろうか。この新羅の女神が住吉神社とも杭全神社とも繋がりがあることをみると、この両社とも新羅系の神社であろう。それにしても何故女神のみを祀ったのであろうか。天日槍と赤留比売が共に祀られなかったことは何を意味しているのであろうか。
古民家などを再生した寿司和食のチェイン店がんこ「平野郷屋敷」
平野の歴史がとてもよくわかります→こちら
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午前中に堺の病院にいる母を見舞ってまだ昼までに間があった。
以前からずっと気になっている、赤留比売(あかるひめ)神社へ行くことにした。
ナビではなぜか地名入力しようとしてもできなかった。
多分平野公園の西側だったと、平野公園で設定して向かう。
公園近くで年配女性2人に尋ねるも知らないという。
一方通行とかで近づきにくいし、あまり知られていないことにビックリ。
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これは昔の地図ですが、赤留比売神社が平野郷の東外にあるのがわかるでしょうか。
神社近辺は昔ながらの村の旧道で細く車通行に適していない。
公園の西側に行きたくとも行けない。
公園ぐるりを南→東→北と周り公園北側に駐車して探索開始。
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石橋があった。
帰ってから調べてみると、かつて松山池だった。
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レンガで囲った花壇は草ボウボウ、さらに進むと小高い丘。
これが平野郷の環濠跡だった。
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2015-02-22 大坂の陣ウォーキング 真田幸村コース では
杭全神社は行ったけど、あかるひめ神社は行かなかった。
上に登ってみると
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やっとお社が目に入り、西側から入ることが分かったので廻ってみる。
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工事の軽トラが数台止まってて大勢の男性たちがお昼休憩に入るとこだった。
提灯もいっぱい飾られてるし、テントも設営されてるし、
祭が終わったのか始まるのか?
今日は撮影しそびれたので画像拾ってきました。
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西にある鳥居から入り、赤留比売神にあいさつした。
社殿扉は固く閉ざされ、お賽銭箱もなかった。
あんなに工事人夫さんいるのに、地域の人あまり知らない?
神社を知らない人たちは平野環濠外側の住民だったのかもしれない。
しかし、社殿横や背後から撮影した画像はどれも清々しく、別に見捨てられた神様でないこともよくわかった。
でもなんか不思議な感じがして、帰ってからずっと調べてました。
赤留比売神社、現在は杭全(くまた)神社の境外社ですが、
これは大正3年からのことで、かつては住吉大社の境外末社だった。
8/1の住吉祭に、いまでも桔梗の造花をこの神社から捧げられるらしい。
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住吉大社の夏祭りは、731年から記録が残っていて、
戦国時代には宣教師ルイス フロイスも壮麗な祭を見学し本国に報告しています。
神輿が堺の宿院頓宮まで渡御され、宿院の飯匙堀で荒和大祓が執り行われます。
そこでこの桔梗造花が供えられるのですね。
住吉祭 神輿渡御(みこしとぎょ)の歴史 に
享保 8年(1723)平野七名家の桔梗造花献上が再興
荒和祓桔梗献花口上覚 という記載がありました。
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住吉大社の南、和泉の国との境界の宿院頓宮近くに開口神社。
すみよっさん東側、河内の国との境界近くにアカルヒメ神社。
境内というよりは神域の端を護るってかんじでしょうか。
もう一度地図見てもらいましょう。
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喜連村には楯原神社とありますが、
かつて十種神宝で記事にしたことありますよ~ 2009-02-15
それにしても、なんで桔梗なんやろう。
ちなみに、住吉大社の社紋は四菱で、神戸の住吉神社が桔梗紋のようです。
なんか深~い闇か歴史ありそうですね。
三井寺の新羅神社考より引用させてもらいます。
太字は当ブログ管理者
平野本郷の南東の角、百済橋の南に平野公園があり、神社は公園の中にある。公園の西半分は旧環濠跡である。神社の前に「杭全神社飛地境内・式内赤留比売(あかるひめ)命神社」と刻まれた大きな石柱が立っている。拝殿は入母屋造、本殿は流造で朱色である。祭神は赤留比売命。
神社の説明書と『杭全神社』によれば、赤留比売命神社─平野環濠都市遺蹟─当社の祭神、赤留比売命は新羅から来た女神で天之日矛の妻と伝える。当地を開発した渡来氏族の氏神として祀るが、創建は詳らかでない。平安時代につくられた延喜式神名帳には、当社が記載されている。かつては住吉大社の末社であったために七月三十一日の住吉の例大祭「荒和大祓(あらにごのおはらえ)」には当地の七名家より桔梗の造花を捧げるのが慣例であった。大正三年、他の神社と共に杭全神社境外末社となり今日に至っている。
当社は、昔は平野流町の門外字中山にあったがその後平野郷町三十歩に移座した。俗に三十部神社と呼ばれているが、これは応永の頃、僧覚証が旱魃に際し祈雨の為法華経三十部を奉読し霊験があったのでこの名称が起きたといわれている。その為に古来雨を祈る神といわれている。
平野区が百済人の住んだ町であることは、百済に係わる名称が残っていることからも推測できる。すると百済の人々が新羅系の神を祀ったのか、あるいは、新羅系の人々の居住が先にあり、その後、百済系の人々の入植があったのかのどちらかであるが、赤留比売命は天之日矛の妃で、日光感情伝説をもつ「日妻(ひるめ)」とみれば、日神を祀る巫女であり、古代に祀られた土着の神であると思われる。新羅系の人々の居住地に比較的後の時代(七世紀か)に百済系の人々の居住があったのではないかと考えられる。
『住吉大社神大記』によれば、赤留比売も下照比売も住吉大神の御子神となっている。比売許曽神社の祭神が阿加流比売(赤留比売)から下照比売神に変わったのに当社の神は赤留比売神で変わらなかったのは新羅寺を神宮寺とする住吉大社との関係からであろうか。この新羅の女神が住吉神社とも杭全神社とも繋がりがあることをみると、この両社とも新羅系の神社であろう。それにしても何故女神のみを祀ったのであろうか。天日槍と赤留比売が共に祀られなかったことは何を意味しているのであろうか。
古民家などを再生した寿司和食のチェイン店がんこ「平野郷屋敷」
平野の歴史がとてもよくわかります→こちら