水平社博物館の2階バルコニーに方位盤あって、それ越しに撮影。川土手向こうに「金剛葛城山一周駅伝大会」の看板見えます。その右隣看板は切れてますが、水平社100周年と書かれてたような。全国水平社設立は1922年3月3日なので、今年は102年目ですね。
学生時代に教養の履修科目に部落問題がありましたけど…あの時も今も意識変化なく啓蒙もされなかった。
http://www1.mahoroba.ne.jp/~suihei/files/shmpfr.pdf
頂いた「水平社博物館 人権のふるさとマップ」でみると、最初の画像には写ってませんが、水平社右隣に誓願寺があり、その一角の鳥居が神武天皇社のようです。
バスで帰る時車窓より確認できました。すぐ近くなんだから待ち時間に寄ってみればよかったな。
川向こうに見えるお寺は、西光寺のようです。その背後の山が、本馬山(嗛間丘 ほほまのおか)ふりがな振ってないと読めません。
地図のずーっと下にJR線路があり、右隅に掖上駅(わきがみえき)これも読み方分かりませんでした。
https://www.stomo.jp/kamisama/pdf/220428.pdf
神武天皇社(御祭神:神倭伊波礼毘古命)奈良県御所市柏原246マップの裏の説明にも、日本書紀神武紀31年4月1日条に記される。神武天皇がその頂から国見をしたという「掖上嗛間丘」は本馬山のことで燕神社辺りと伝えられてきました。
水平社という単語は学校でならいました。部落問題や女性の人権とか絡めてさらっと。今回それ以前の古〜い歴史を知って納得できたこと多々ありました。
学生時代に教養の履修科目に部落問題がありましたけど…あの時も今も意識変化なく啓蒙もされなかった。
http://www1.mahoroba.ne.jp/~suihei/files/shmpfr.pdf
頂いた「水平社博物館 人権のふるさとマップ」でみると、最初の画像には写ってませんが、水平社右隣に誓願寺があり、その一角の鳥居が神武天皇社のようです。
バスで帰る時車窓より確認できました。すぐ近くなんだから待ち時間に寄ってみればよかったな。
川向こうに見えるお寺は、西光寺のようです。その背後の山が、本馬山(嗛間丘 ほほまのおか)ふりがな振ってないと読めません。
地図のずーっと下にJR線路があり、右隅に掖上駅(わきがみえき)これも読み方分かりませんでした。
どちらもけったいな名前ですし、見たことない漢字です。
ワキカミの地は、清水湧出する「ワキス」に近く、そこに鎮座する神の地とする説。
ワキカミは、「大神」に対する区別呼称で、分神の意で、ワカカミの義であろうとする説。
掖上の掖には、宮殿という意味があるそうです。
そして、「嗛間 ほほまの丘」は美しい丘という意味。
火の穂は「ほほ」、波の穂の「ほ」と同じで、まほろばの「まほ」も同じだそうです。https://www.stomo.jp/kamisama/pdf/220428.pdf
明治の初めには『宮跡に指定されてしまうと引っ越さなければならない』
ということで、証拠書類を焼き払い、指定を免れたという言い伝えがあるそうです。
神武天皇が東征を達成した後、高い所から国土を見渡す国見をしたという「嗛間の丘」候補地が、国見山、本馬山。
日本書紀の神武天皇31年4月1日、天皇は腋上の嗛間の丘に登られ、
国のかたちを見ていわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。
狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメしているように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」
これによって始めて秋津洲(あきつしま)の名ができたという。
神武天皇社(御祭神:神倭伊波礼毘古命)奈良県御所市柏原246マップの裏の説明にも、日本書紀神武紀31年4月1日条に記される。神武天皇がその頂から国見をしたという「掖上嗛間丘」は本馬山のことで燕神社辺りと伝えられてきました。
神武天皇が即位したところだという説。
1736(享保21)年の大和誌には「橿原宮。柏原村に在り」
1772(明和9)年本居宣長の「菅笠日記」に、
畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記しています。
燕神社は1921年(大正10)8月28日に建立されました。
この場所は、「岩崎村」の名前の由来である「岩の突き出たところ」
岩崎村の人々がこの場所に住居を築いたのは、
「岩の崎」の直下は満願寺川・本馬川・中方川・曽我川の4本の河川が合流する場所で、
御所市に降った雨水の東半分のすべての雨水が集まるから。
近代以前に、弊牛馬の解体を担い膠を生産していた岩崎村の人々にとって、この豊富な水量こそが産業を支えてくれる「命の水」であった。
水平社という単語は学校でならいました。部落問題や女性の人権とか絡めてさらっと。今回それ以前の古〜い歴史を知って納得できたこと多々ありました。