今までコンパクトデジカメは5台以上使いましたが、ほとんどAUTOで使用。
ほんの一部の機能しか使ったことありませんでした。
それがペンタックスQは、ナノ一眼。
どこをどう触ればいいのか…。
六波羅蜜寺へ出かけるにあたり、レンズは単焦点レンズでAUTOにしました。
なんかやっぱり画像はすべて紫色がかっているような気がする…
光の調節ダイヤルの使い方がわかったのは、帰る間際になってからだった。
NHK大河ドラマ「平清盛」今晩12月2日放映予定は「宿命の敗北」
いよいよ源頼朝が挙兵します。
六波羅蜜寺あたりは、平家一族郎党の住まいとして開拓され年を追うごとに拡大していきました。
最盛期には広大な境域に5200余の邸館が並んだという。
1183年平家滅亡の時、兵火を受け講堂は類焼するも、本堂のみ焼失を免れました。
そのため平安時代からの仏像など貴重な文化財にお目にかかれます。
六波羅蜜寺に向かう角に 石塔「六道之辻」
その昔、「六道の辻」は鳥辺野の無常所の入口にあたり、
現世と冥途との境の地であり、亡骸はこの辻の向こう側に捨てられた。
金のない民衆は埋められもせず、弔われることもなく放置され、穏亡(オンボウ)たちによって運び捨て去られた。
その死せる肉体は風雨に曝され、髑髏(ドクロ)となって六波羅の野辺に転がっていた。
その骨を拾い、さまよえる魂を供養したのが六波羅蜜寺創建の空也上人。
六波羅蜜寺は平家全盛をさかのぼること200年前、
天暦5年(951年)醍醐天皇の第二皇子・空也上人(903〜972)によって開創されました。
10時半ごろお寺に到着すると、お加持を受けて本堂内裏まで入れることがわかった。
11時11分頃に午前の最終お加持が始まるまで、本堂裏手にある宝物館見学。
拝観料600円かかりますがお値打ちありました。
820年ころ、794年平安遷都から20数年後、
弘法大師 (774−835)が六波羅に地蔵堂を建立し自作の地蔵菩薩を安置した。
地蔵さまは六道にいる人間の苦を救う仏で、
この世からあの世へ、またあの世からこの世へ、さ迷える魂の送迎をする。
それは重要な役割をになう神で、地獄に落ちた亡者を救えるのは唯一、地蔵菩薩だけ。
宝物殿には地蔵菩薩の立像・坐像が安置されてました。
空也上人(くうやしょうにん)
出生:不明(醍醐天皇の第二皇子といわれる)
生年903年 没年972年
若くして五畿七道を巡り修行、尾張国分寺で出家し、空也と称した。
その後も諸国を遍歴し名山を訪れ、練行を重ねるとともに一切経をひもとき教義の奥義を極めた。
948年比叡山坐主・延勝より大乗戒を授かり光勝(こうしょう)の法号を受けた。
森羅万象に生命を感じ、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えた。
この時代の一般の僧は権力と結びついて栄耀栄華を望む者が多かったが、
上人はそれらには見向きもせず市中にあって伝道を励んだ。
道路や橋を補修したり、貧しい者や病に苦しむ者への施しを行ったといわれ、
「阿弥陀聖」「市聖(いちのひじり)」と称されるようになる
重要文化財・空也上人像
運慶の四男・康勝の作による
胸に金鼓、右手に撞木、左手に鹿の角を頭に飾った杖をつきぞうりを履いている。
6体の阿弥陀を口から吐く
「南・無・阿・弥・陀・仏」の六文字を象徴しているという。
<空也の鰐口と太鼓>
「空也上人絵詞伝」による故事が残る
松尾明神が人に化現して現れ、空也に、お布施として鰐口と太鼓を与え、
「末世の衆生利益のために、この太鼓を叩いて念仏を勧めなさい。
念仏を唱えていれば影で守護をする」と神託して消えたという。
空也 平将門 で検索してもいろいろヒットして興味深い。
ほんの一部の機能しか使ったことありませんでした。
それがペンタックスQは、ナノ一眼。
どこをどう触ればいいのか…。
六波羅蜜寺へ出かけるにあたり、レンズは単焦点レンズでAUTOにしました。
なんかやっぱり画像はすべて紫色がかっているような気がする…
光の調節ダイヤルの使い方がわかったのは、帰る間際になってからだった。
NHK大河ドラマ「平清盛」今晩12月2日放映予定は「宿命の敗北」
いよいよ源頼朝が挙兵します。
六波羅蜜寺あたりは、平家一族郎党の住まいとして開拓され年を追うごとに拡大していきました。
最盛期には広大な境域に5200余の邸館が並んだという。
1183年平家滅亡の時、兵火を受け講堂は類焼するも、本堂のみ焼失を免れました。
そのため平安時代からの仏像など貴重な文化財にお目にかかれます。
六波羅蜜寺に向かう角に 石塔「六道之辻」
その昔、「六道の辻」は鳥辺野の無常所の入口にあたり、
現世と冥途との境の地であり、亡骸はこの辻の向こう側に捨てられた。
金のない民衆は埋められもせず、弔われることもなく放置され、穏亡(オンボウ)たちによって運び捨て去られた。
その死せる肉体は風雨に曝され、髑髏(ドクロ)となって六波羅の野辺に転がっていた。
その骨を拾い、さまよえる魂を供養したのが六波羅蜜寺創建の空也上人。
六波羅蜜寺は平家全盛をさかのぼること200年前、
天暦5年(951年)醍醐天皇の第二皇子・空也上人(903〜972)によって開創されました。
10時半ごろお寺に到着すると、お加持を受けて本堂内裏まで入れることがわかった。
11時11分頃に午前の最終お加持が始まるまで、本堂裏手にある宝物館見学。
拝観料600円かかりますがお値打ちありました。
820年ころ、794年平安遷都から20数年後、
弘法大師 (774−835)が六波羅に地蔵堂を建立し自作の地蔵菩薩を安置した。
地蔵さまは六道にいる人間の苦を救う仏で、
この世からあの世へ、またあの世からこの世へ、さ迷える魂の送迎をする。
それは重要な役割をになう神で、地獄に落ちた亡者を救えるのは唯一、地蔵菩薩だけ。
宝物殿には地蔵菩薩の立像・坐像が安置されてました。
空也上人(くうやしょうにん)
出生:不明(醍醐天皇の第二皇子といわれる)
生年903年 没年972年
若くして五畿七道を巡り修行、尾張国分寺で出家し、空也と称した。
その後も諸国を遍歴し名山を訪れ、練行を重ねるとともに一切経をひもとき教義の奥義を極めた。
948年比叡山坐主・延勝より大乗戒を授かり光勝(こうしょう)の法号を受けた。
森羅万象に生命を感じ、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えた。
この時代の一般の僧は権力と結びついて栄耀栄華を望む者が多かったが、
上人はそれらには見向きもせず市中にあって伝道を励んだ。
道路や橋を補修したり、貧しい者や病に苦しむ者への施しを行ったといわれ、
「阿弥陀聖」「市聖(いちのひじり)」と称されるようになる
重要文化財・空也上人像
運慶の四男・康勝の作による
胸に金鼓、右手に撞木、左手に鹿の角を頭に飾った杖をつきぞうりを履いている。
6体の阿弥陀を口から吐く
「南・無・阿・弥・陀・仏」の六文字を象徴しているという。
<空也の鰐口と太鼓>
「空也上人絵詞伝」による故事が残る
松尾明神が人に化現して現れ、空也に、お布施として鰐口と太鼓を与え、
「末世の衆生利益のために、この太鼓を叩いて念仏を勧めなさい。
念仏を唱えていれば影で守護をする」と神託して消えたという。
空也 平将門 で検索してもいろいろヒットして興味深い。