新年おめでとうございます。
年始早々のご訪問ありがとうございます。
今年もご贔屓たまわりますように m(--)m
甲午の年、一番最初の画像は、セピア色した懐かしの写真をデジカメ撮影したものです。
うちの母と母の父。
祖父と一緒の写真は桜の花が咲いているので、たぶん妹が生まれた年の春?
昭和32年(1957年)4月に新生児の顔を見に来てくれたのだと思います。
手を繋いでもらった私は3歳半、当時のザンギリおかっぱ頭が懐かしい。
母方の従兄弟たちは皆、このおじいちゃんの写真を持ってないらしいです。
たぶんこれが唯一の一枚かもしれません。
じゅんちゃん、ちかちゃん、よく見てくださいよ〜
かおるちゃん、ひろっちゃんにも見て欲しいな。
あの時代にダンディでしょう。
母は認知症になってから、住所を尋ねると、
いつも自分が生まれ育った場所を言いました。
「堺市戎之町東4丁目22番地」
第2次世界大戦の終盤、堺の旧市街は大空襲の被害を受けました。
昭和20年の五次にわたる空襲により1870余柱の堺市民の尊い生命が失われたそうです。
母の実家はお寺で、3人姉妹の一番下のこいちゃんでした。
いつも境内の砂を掃目つけて掃除してたそうです。
でもそのお寺の名前はわかりません。
旧市街の戎之町あたりは寺町で、7月の空襲で本堂に焼夷弾が落ちて火の手があがった。
タオルを水でぬらして鼻と口を覆い着の身着のまま、親戚がある黒土まで逃げたと聞いています。
そのため写真はもとより思い出の品は何一つ残っていないのです。
昔母から聞いたところによれば、殿馬場小学校がすぐ近くだったのに、学区は熊野小学校に通った。
熊野と書いて、「ゆや」と読む不思議な由来は昨夜検索してわかりました。
また後日ご紹介します。
母方の祖父、森忠治はすでに私が小学校1年頃に亡くなっています。
この写真から数年後バイク事故だと聞いています。
後妻さんの息子さんが後を継がれたため、その後母の実家を訪れることはなくなりました。
戦後寺を再興することなく、原村?の助役とかをしてたらしい。
親戚のおっちゃんの話では西国33箇所の施福寺とも懇意だったとか。
施福寺は天台宗のようですが、燃えたおじいちゃんのお寺も天台宗だったんだろうか?
どなたか戦前の戎之町東4丁目界隈のことご存知の方居られましたら、何なりと教えてください。
高校は堺東にありましたから3年間も通いながら、当時全く興味なくて。
妹も泉陽高校出身ですから母の生家のもっとすぐ近くまで通ってた。
数年前になってやっと行ってみようと散策したらしい。
私もこの年齢になってやっと母のルーツを調べてみたくなりました。
たまたま母は去年暮れから三国ヶ丘の病院に入院中です。
見舞ったついでに、暮れには開口神社へ参りました。
なぜ一番最初にこの神社を選んだかというと、出身高校発祥の地だったから。
昨日元旦は、子ども孫大勢で見舞ったので、そのまま妹の家へ例年どおり新年パーティへ。
今年も年始早々、おもいっきりご馳走になってきました。
いつもありがとう。
中世の繁栄を誇った堺は、大阪夏の陣で豊臣方に焼き尽くされたようです。
堺の環濠は、徳川幕府に再建され中世のものより東に移動し、一回り大きなまちとなりました。
「元和の町割」と呼ばれ、この環濠が土居川で、北・南・東に巡らされていました。
西側は海で、農人町の内側に南北に寺が配置され寺町となっていました。
しかし1945年の堺空襲で、寺町の多くも焼失しました。
殿馬場中学校から北の泉陽高校にかけての辺りが、堺奉行所跡。
堺奉行の管轄は、新大和川筋・石川筋まで及んでいて、
1889(明治22)年町村制施行で堺市が発足し、昭和初期まで堺市役所もここにありました。
母の話によくでてきた殿馬場小学校は戦後殿馬場中学校になっています。
次回、母を見舞ったら、菅原神社へ参拝しようと思います。
摂津・河内・和泉の三国の境は不思議なところ。
三国の境界にあるため方角のない聖地が三国丘。
なんとその名がついた高校を卒業してたのです。
たまたま母は人生最終の局面に来て、生誕の地近くの三国丘に戻ってきたのも何かの縁。
この新春は母を見舞いつつ、探索してみたいと思ってます。
今年も不思議探検よろしくお付き合いお願いいたします。