なんとも太っ腹な展示状況。写真もOKで、禁止と表示されてたのは襖絵だけ。レプリカ?
ふつうならサラ~っと見るだけなんだけれど、若狭旅の記録を綴ってた先月、satokoさんのコメントに触発されて、長谷寺の十一面観音を彫った霊木がどこから来たかが気になってました。それでいつもよりはしっかり見て、写真も撮ったので記録残しておきます。
①長谷寺を訪れた菅原道真は霊夢をみました。吉野金峯山寺の蔵王権現が金色の橋を渡って現れ、道真にお告げをする夢です。目覚めた道真は、長谷寺縁起の執筆を始めました。
⑦徳道は、観音像を造るための御衣木を得るために、師の道明に相談しました。道明は、近くの川岸に霊木があることを告げ、昨夜の夢に霊木を守護する三尾大明神が現れたことを話しました。
⑧徳道は、初瀬の郷の古老のところに行き、霊木について尋ねました。古老は、この霊木はいずれ里に祟りをなすので、皆で遠くの地へ送るつもりだと答えました。
⑨古老は語り始めます。近江の国三尾前山(今の滋賀県湖西地方)の白蓮華谷に大きな楠が横たわっていました。楠は常に光を放ち、良い香りがして、幹がラ白蓮華が生えていました。
「横たわる霊木、この場所はここ」QRコードを読み込むと
⑪霊木は、志賀郡大津の里(今の滋賀県大津市)に流れ着いて70年とどまりました。里の人が霊木を切ろうとすると火事や疫病がおこったので、霊木に触れるものはいなくなりました。
⑫その後、霊木は高市郡八木の里(今の奈良県橿原市八木)に30年、葛下郡当麻郷(今の奈良県葛城市当麻)に50年曳置かれましたが、行く先々で祟りや不吉なことが続きました。
これ以上の撮影をやめました。
お坊さんにこの展示されてる大広間まで案内されて、自由に閲覧くださいと外でお待ちでした。あまりゆっくり見てる余裕もなくて、他に閲覧者がいたら避けざるを得なかったりで。
あの日、大講堂から見た本堂と初瀬の山
たまたま、あの日の夜鎌倉の長谷寺が報じられていました。
ネットで検索してみたら、こんなサイト発見。『長谷寺縁起絵巻』の詞書と絵図
『長谷寺縁起絵巻』の概要について 、以下コピペ長谷寺縁起絵巻三巻は、この十一面観音の造立にまつわる諸々の奇譚、霊験譚を集成したものだが、その内容は、 寛平八年(九九六)に菅原道真が勅命によって作成したと偽托されている漢文の長谷寺縁起文を和文化したものである。
上巻は道真が長谷寺に入って縁起文を筆する段を巻頭において、この縁起絵が由緒正しいことを示し、次いで、古くからあった本長谷寺の縁起を第二段に描くが、第三段以下は、本尊造像に尽力した徳道上人の誕生から出家、修行、寺院建立の決意、仏像造立の祈願を第七段までに描き、第八段は徳道が師の道明に教えられた霊木について、古老にその由来をたずねるところ。第九段以下第十二段は古老の語る霊木出現の経緯や、この木が人々にたたりをする説話を四話載せ、第十三段で徳道が里人からこの霊木をもらいうけた事をのべる。
続きは、『長谷寺縁起絵巻』の詞書と絵図
詳しく説明されているのを見てると、先の撮影画像で漏れてた⑩は以下の通り又云、継体天皇十一年、雷電風雨がおこり洪水となって此木が彼の谷から流出した。絵は、風神・雷神が大風、洪水をおこし、異行の者や持蓋童子、白衣の翁が霊木を護る光景。
さらに読み進めると、
香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)(また、酒天童子が変化した楠)と、
『長谷寺縁起絵巻』のなかで描かれている、祟りたたりをなす霊木(御衣木みそぎ)の楠には、たくさんの共通点があります。
『大江山絵詞』絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)は、『長谷寺縁起絵巻』の伝説を「元ネタ」のひとつとしてつくられた可能性があるのではないかとおもいます。(または、その逆の流れだったのかもしれません。)
不思議繋がりは尽きません・・・