見逃した「ひんここ祭」の人形が飾られてあった。ずーっと昔は祭の最後に燃やされたそうだ。今は作り手も減り大事に継承されてるのでしょう。
岐阜新聞Web 11/24配信で
躍動感ある人形の舞 美濃市でひんここまつり約500年前から伝わるとされる岐阜県美濃市大矢田の大矢田神社の祭礼「ひんここまつり」(国選択無形民俗文化財)が23日、同神社で行われた。
地元住民が素朴ながらも躍動感のある人形の舞を繰り広げ、詰め掛けた観客を魅了した。
祭礼は4月の例祭と境内のモミジが色づく11月の年2回行われ、五穀豊穣を願う素朴な人形劇「ひんここの舞」など一連の奉納神事からなる。
秋はひんここの舞のみが行われる。
御旅所近くの山の中腹に設けられた舞台で、地元有志でつくる保存会員約30人が舞を演じた。
竹製のかご状の顔に胴を付けて衣装を着せた、農民や須佐之男命(すさのおのみこと)、大蛇(おろち)の人形が舞台に上がり、農民を襲う大蛇を須佐之男命が勇猛果敢に退治した。
保存会員は「ホーイ」という掛け声に合わせて人形を揺り動かし、山の麓から見上げる大勢の観客は盛んに拍手を送っていた。
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「大矢田」の地名由来は、大き弓、大き矢によるそうだ。
天若日子命が高天原より使者に出る時に、天照大神より賜った天之麻迦古弓、天之波々矢、猪、鹿など大きな獣を射る大きな弓、大きな矢。
孝霊天皇の時代、深山に悪竜が棲み付き困っていた。里人が喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ったところ、
建速須佐之男命を祀るよう夢告があった。
その通り勧請を行うと、建速須佐之男命が現れ悪竜を退治してくれた。
それをモチーフにしたのがひんここまつり。
平和を取り戻した里人は、建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建てた。境外摂社喪山天神社は、もともと大矢田神社の地にあったのを移転したものとされる。
本殿右手から天王山山頂へ登れます。
標高537m頂上まで1200m30分程度で行けるんだって。大もみじの木も見たいです。次来た時は絶対に行きたいな。
天王山にあるから、大矢田神社は通称お天王さまそしてこの山は喪山ともよばれるそうだ。
その喪山となった経緯は、国譲り神話によります。
天照大神の命で、天界から下界(葦原中国=出雲)に遣わされたものが戻って来ない。それで、次に送り込まれたのが天若日子(アマノワカヒコ)
しかし、彼も下照姫と結婚して帰って来ない。無名雉を様子を見にやると、ワカヒコは雉を弓矢で射殺し、その矢は高天原まで飛んでいった。その矢を「雉を殺したのがワカヒコならワカヒコに当たれ」天界から下界に矢を投げ返すと寝ていたワカヒコに当たり死んでしまう。葬儀にワカヒコにそっくりな阿遅志貴高日子根(アジスキタカヒコネ)命が現れ妻の下照姫や親族は死者が生き返ったと喜ぶ。
死者と間違われて怒ったアジスキタカヒコネは、喪屋を剣で切り足で蹴ると、喪屋は美濃国藍見河の河上まで飛んで喪山となりました、とさ。
社伝によると、天照大神に豊葦原中国の平定の為遣わされた天若日子は、大国主命の娘下照比賣命を娶り、大矢田の里に到り田畑を開き、人民を繁殖してこの地に住んだとされている。
その近くには天若日子の妻である下照姫をまつる上神神社がある。 社由緒書きによれば、下照比売と天若日子は力を合わせて中津国の平定に大きな功績を残し、この里にお住居になつた神と伝えている。
さらにその近くには真木倉神社がある。天若日子と下照姫の子である御手洗姫命(みたらいひめのみこと)の生誕地とされており、御手洗姫命が主祭神として祀られている。
なお、垂井町の葬送山古墳が喪山との説もある。
私同様、ひんここ、喪山伝説に不思議を感じた人はいました。
2018年度名古屋大学学生論文コンテスト優秀賞受賞「大矢田ひんここ」と喪山信仰文学部2年 山中海瑠 さん
論文タイトルで検索するとPDFで開きます。
柚子天盛りの五平餅食べて、大矢田神社 初参拝終了。
いつか機会作って、また参拝したいとこです