毎年6月6日には、大元堂が一般公開され、それはそれは長い列ができるそうです。
普段は写真パネルで拝顔できます。
JR東海の大和をかし話 其ノ21-22は秋篠寺第68話「水に映った怒れる明王-秋篠寺の大元堂」
コピペできないので、後半をかいつまんで引用させてもらいます。
平安時代の初期に常暁(じょうぎょう)というお坊さんが唐に留学する前に秋篠寺に籠って修行をしていた。あるとき常暁が仏さまに捧げる水を汲む閼伽井(あかい)を覗いたところ、水面に映った自分の姿に重なるようにして、怒りに満ちた仏の姿が浮かび上がった。驚いた常暁はその様子を紙に描き、それをもって唐へと旅立った。そして唐の地で国を護るための密教の修法「大元帥法」を学んだとき、秋篠寺の閼伽井で見た仏が大元帥明王だと知る。常暁はこの秘法を日本に持ち帰り宮中でも行われるようになった。秋篠寺の閼伽井は「香水井(こうずいい)」と名づけられ、その水は修法に使われるだけでなく、明治4年まで 宮中に献上してきた。
ココに出現したと書いてあるようなので、家に帰って調べてて分かったのでした。
大元帥明王(サンスクリット語: Āṭavaka)
仏教の中でも特に密教における尊格である明王の一つ。だいげんすいみょうおう、と読みたいところですが、真言密教では帥を発音しないそうで、たいげんみょうおう
大元帥明王は、古代インド神話に登場する非アーリアンの鬼神アータヴカ(Āṭavaka)に由来し、「荒野鬼神大将」、「森林鬼神」と漢訳され、直訳すると「林に住む者」「林の主」の意味。
このようなアータヴカはインド神話において弱者を襲って喰らう悪鬼神
とされたが、密教においては大日如来の功徳により善神へと変じました。その悪を打ち砕く大いなる力は国家をも守護する護法の力へと転化、明王の総帥に。
一説には「全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」と言われます。
軍組織における大元帥や元帥の呼称は、この大元帥明王からきているという説も。
国内に彫刻として存在するのは秋篠寺だけ。
秋篠寺に残る大元帥明王像は、火焔を背負うたくましい身体に蛇を巻き付けて、六本の腕に武器をもつ。
一面六臂の憤怒相で、髪は怒りによって天を衝くように逆立つ。まさに鬼神そのもの。
秋篠寺(奈良観光協会サイトより) 奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれています。平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林になってしまっています。本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが伎芸天(重文)で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、またその造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれています。
しかし、「苔むして静謐なお寺の優雅な伎芸天に会いに」からは思いもつかない歴史がありました。
秋篠寺創建期、宮廷において権謀術策に満ちた暗澹たる権力闘争が繰り返され、時代は大きく変わろうとしていた。秋篠寺は、まさにその渦中で権力者の様々な思いを背負って建立された寺院だった。
光仁天皇は、称徳天皇崩御をうけて神護景雲4年(770)8月立太子。称徳天皇の死は、従前より懸念されていた皇太子不在が現実の問題として顕在化したことを意味する。皇太子不在のままの天皇の崩御はたちまち政局の不安定化、強いては混乱に直結した。そのために急遽、左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備らが、立太子候補選定の協議で、永手は白壁王(光仁天皇)62歳を、吉備真備は天武天皇の孫である文室大市王(ふんやのおおいち)67歳を推挙して対立し膠着状態に。対立の原因は、天武天皇以来守られてきた天武系の王を立太子させる否かの一点であった。永手の推す白壁王は天智天皇の第七子である施基親王の第六子で天武系ではなかったのに吉備真備は固執した。
詳しくは→ 秋篠寺創建目的と光仁天皇
上記の古寺巡訪のサイトでは、最後にこう結ばれています。秋篠寺は時代が変わろうとする大きな節目に建立された寺院です。それだけに時代に翻弄された人々の様々な思いが境内の奥深くに沈殿しているように思います。 この苔むした境内に佇んでいると、今尚、それらが地中深くからそれぞれの思いを込めた眼で、訪れた者をじっと凝視しているような幻想にとらわれます。 秋篠寺。必ず訪れたい寺院の一つです。
普段は写真パネルで拝顔できます。
JR東海の大和をかし話 其ノ21-22は秋篠寺第68話「水に映った怒れる明王-秋篠寺の大元堂」
コピペできないので、後半をかいつまんで引用させてもらいます。
平安時代の初期に常暁(じょうぎょう)というお坊さんが唐に留学する前に秋篠寺に籠って修行をしていた。あるとき常暁が仏さまに捧げる水を汲む閼伽井(あかい)を覗いたところ、水面に映った自分の姿に重なるようにして、怒りに満ちた仏の姿が浮かび上がった。驚いた常暁はその様子を紙に描き、それをもって唐へと旅立った。そして唐の地で国を護るための密教の修法「大元帥法」を学んだとき、秋篠寺の閼伽井で見た仏が大元帥明王だと知る。常暁はこの秘法を日本に持ち帰り宮中でも行われるようになった。秋篠寺の閼伽井は「香水井(こうずいい)」と名づけられ、その水は修法に使われるだけでなく、明治4年まで 宮中に献上してきた。
ココに出現したと書いてあるようなので、家に帰って調べてて分かったのでした。
大元帥明王(サンスクリット語: Āṭavaka)
仏教の中でも特に密教における尊格である明王の一つ。だいげんすいみょうおう、と読みたいところですが、真言密教では帥を発音しないそうで、たいげんみょうおう
大元帥明王は、古代インド神話に登場する非アーリアンの鬼神アータヴカ(Āṭavaka)に由来し、「荒野鬼神大将」、「森林鬼神」と漢訳され、直訳すると「林に住む者」「林の主」の意味。
このようなアータヴカはインド神話において弱者を襲って喰らう悪鬼神
とされたが、密教においては大日如来の功徳により善神へと変じました。その悪を打ち砕く大いなる力は国家をも守護する護法の力へと転化、明王の総帥に。
一説には「全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」と言われます。
軍組織における大元帥や元帥の呼称は、この大元帥明王からきているという説も。
国内に彫刻として存在するのは秋篠寺だけ。
秋篠寺に残る大元帥明王像は、火焔を背負うたくましい身体に蛇を巻き付けて、六本の腕に武器をもつ。
一面六臂の憤怒相で、髪は怒りによって天を衝くように逆立つ。まさに鬼神そのもの。
秋篠寺(奈良観光協会サイトより) 奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれています。平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林になってしまっています。本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが伎芸天(重文)で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、またその造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれています。
しかし、「苔むして静謐なお寺の優雅な伎芸天に会いに」からは思いもつかない歴史がありました。
秋篠寺創建期、宮廷において権謀術策に満ちた暗澹たる権力闘争が繰り返され、時代は大きく変わろうとしていた。秋篠寺は、まさにその渦中で権力者の様々な思いを背負って建立された寺院だった。
光仁天皇は、称徳天皇崩御をうけて神護景雲4年(770)8月立太子。称徳天皇の死は、従前より懸念されていた皇太子不在が現実の問題として顕在化したことを意味する。皇太子不在のままの天皇の崩御はたちまち政局の不安定化、強いては混乱に直結した。そのために急遽、左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備らが、立太子候補選定の協議で、永手は白壁王(光仁天皇)62歳を、吉備真備は天武天皇の孫である文室大市王(ふんやのおおいち)67歳を推挙して対立し膠着状態に。対立の原因は、天武天皇以来守られてきた天武系の王を立太子させる否かの一点であった。永手の推す白壁王は天智天皇の第七子である施基親王の第六子で天武系ではなかったのに吉備真備は固執した。
詳しくは→ 秋篠寺創建目的と光仁天皇
上記の古寺巡訪のサイトでは、最後にこう結ばれています。秋篠寺は時代が変わろうとする大きな節目に建立された寺院です。それだけに時代に翻弄された人々の様々な思いが境内の奥深くに沈殿しているように思います。 この苔むした境内に佇んでいると、今尚、それらが地中深くからそれぞれの思いを込めた眼で、訪れた者をじっと凝視しているような幻想にとらわれます。 秋篠寺。必ず訪れたい寺院の一つです。