2017年が養老に改元されて1300年だったので、養老町では大々的にキャンペーンされてたようです。
養老の滝に重ねて描かれた元正天皇は美貌だったという伝承に基づきます。
万葉集巻二十に採録された歌番号4437は、元正天皇が聖武天皇に譲位されて後に詠まれたものだそうです。
富等登芸須奈保毛那賀奈牟
母等都比等可氣都都母等奈
安乎祢之奈久母
ほととぎすなほも啼(な)かなむもとつ人
かけつつもとな吾を哭(ね)し泣くも
なんとなく愛する人いたんだな、ワケありで一緒になれなかったんだと思わせる歌です。
36歳の未婚で、母であった元明天皇より受け継ぎ、44代天皇に。
体の弱かった弟の文武天皇が25歳の若さで崩御され、まず母が、ついで姉であった氷高皇女が天皇になった時に、すでに皇太子(後の聖武天皇)は元服してたという。
名 氷高皇女
諱 日本根子高瑞浄足姫天皇
(やまとねこたかみずきよたらしひめ)
天皇在位 715年から724年
この系図ではわかりませんが、
持統天皇も、元明天皇も天智天皇の皇女です。
異母姉妹とはいうものの、母親同士も姉妹でした。
遠智娘(おちのいらつめ)と姪娘(めいのいらつめ)の父が蘇我倉山田石川麻呂、蘇我馬子の子です。
後の持統と元明2人は、母親が姉妹で父親が天智天皇という入り組んだ関係でした。
持統天皇(鸕野讃良皇女)が4歳のとき、母方の祖父である蘇我倉山田石川麻呂が自害します。
中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足の陰謀により、蘇我倉山田石川麻呂が自害させられ、母の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の死を嘆き、やがて病死。
そして幼き鸕野讃良皇女は、叔母さんである姪娘に引き取られ、阿閇皇女(後の元明天皇)と一緒に育てられました。
持統天皇、元明天皇の幼き頃からの恨み骨髄しみ込んだ思いはなんだったでしょう。
天武天皇と持統天皇との子、草壁皇子は天皇になる前になくなり、その妻が元明天皇、またもや子供の文武天皇は早逝してしまう。
姉であった氷高皇女は結婚して皇女でなくなったら天皇にはなれないから、独身をつら抜かされた?
氷高皇女の妹吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、やがて長屋王の変で共に落命。
愛する者たちが陰謀に嵌められてどんどんいなくなる…。
拙ブログは昔から旅の記録を書くとアクセス増える傾向があります。
5月下旬に国東半島行った時も確実に500I P 越えて、人々の興味関心にへぇ〜、でした。
ところが、大垣日帰り旅は600越えが続き、養老の滝にまた行きたいと書いたら、
なんと 732!
今までにありえないアクセス数です。
なんとはなしに、元正天皇が知らしめて欲しいと働きかけられてるような気がして。
とりあえず知りえたことを列記しておきます。
帰りのこだまで食べた駅弁は
大垣のお土産は
以上で旅の記録、無事完結。
暑い中、お付き合いありがとうございました(^人^)