沖津宮遥拝所拝殿の前で説明を受けます。
中央の扉を開けて、背面の窓を開けた先に沖ノ島が見えると。
鳥居を後ろから見るとひびが入っているのがわかります。
2005年3月の福岡県西方沖地震の爪痕でした。
石灯篭には難しい漢字が彫ってあります。
宗像大社沖津宮遥拝所で、ガイドさんが説明してくださった中で一番気になったのが
沖津宮の沖という字は、「瀛」
天武天皇の和風諡号にその漢字が使われています。
天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはら おきのまひとのすめらみこと)
妃の一人に、胸形君徳善の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)がおり、高市皇子(たけちのみこ)を産んでいます。
大海人皇子(おおあまのみこ)は知ってても、
天渟中原瀛真人天皇は知らんかった。
ネット情報によれば
「瀛」は道教における東方三神山の一つ。
秦の始皇帝が不老不死の薬をもとめて、徐福に命じ蓬莱、方丈、瀛州へ行かせたという。
その瀛州は済州島のことで、1950年代まで朝鮮語を話す韓民族ではなく、一貫して耽羅(タムラ)という独立国であったようです。
「真人」は道教の中で特別な名前
八色の姓の一つ最高位の姓で、天皇の親族にのみ与えられた位。
道教と儒教、神道と仏教、入り混じってるだろうし、現代の私たちの発想と違うかもしれません。
神功皇后の新羅遠征(363年)には、
「松浦の君」が唐津から、「胸肩の君」津屋崎か神湊から、軍団の長として両方の進軍があったと考えられています。
649年頃に宗像郡が建てられ、神郡(かみのこおり、しんぐん)として宗像社に寄進され、宗像神の祭祀は朝廷から特別に重視されていた。
ところが、神功皇后の新羅遠征に神威を示した宗像大神が、
300年後の663年百済救援のために出征した大和朝廷の水軍に神威を示していない。
大和朝廷軍は白村江にて1万名の兵を失って唐・新羅軍に大敗。
中大兄皇子は、水軍の指揮を安曇比羅夫に任せ、唐津から壱岐島経由で進軍したようです。
比羅夫は白村江で戦死しています。
白村江の戦いでは、宗像から沖ノ島経由ではなく宗像大神に祈願しなかったのでしょうか。
いっぽう天武天皇は、胸形君徳善の女・尼子娘をめとって、「瀛」の字まで諡号に入るぐらいなので、宗像大神とは非常に強いつながりがある。
ゲルマン民族大移動の4世紀は、東アジアだって緊迫してたことでしょう。
そしてわが国では、天智天皇と天武天皇、学校で学んだ歴史ではあかされていない深いワケがありそうです。
宗像大社に、西海鎮護・航海守護だけでなく、国家の命運祈ってたから、海の正倉院といわれるぐらいお宝いっぱい残されてるのでしょう。