讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)
Wikiページより拝借しました。
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
小倉百人一首77番 崇徳院
崇徳天皇(1119~1164)日本の第75代天皇
諱は顕仁。讃岐院とも呼ばれた。
以前、香川県の志度寺について記事を書いたときに調べて保存してあった画像とデータがあります。
2016-01-09 四国86番志度寺 海女の墓★身を捨てて浮かぶ瀬もあり志度の浦
ご披露する時期がめぐって来たようです。
このたび、明治天皇御製2首を先の記事でご紹介できました。
世はいかに開けゆくとも古の国のおきては違えざらなむ
6/18 阿賀神社(太郎坊宮)にて撮影
あまてらす 神のさづけし 寶こそ動かぬ國の しづめなりけれ
7/3 長滝白山神社にて撮影
明治天皇の御製つながりで、実は志度寺について調べていたときにすでに思うことがありました。
明治天皇は、慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して、勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建されました。
諱は睦仁 御称号は祐宮(さちのみや)
昭和天皇は、崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせています。
諱は裕仁(ひろひと)幼少時の称号は迪宮(みちのみや)
なんで、崇徳天皇かというと、
菅原道真、平将門とならび日本三大怨霊のお一人だからでしょう。
崇徳上皇は「日本一の大魔王」と呼ばれるそうです。
22歳の若さで、父鳥羽上皇から天皇の位を奪われてクーデター「保元の乱」を起こすも、企ては失敗し四国讃岐に流罪となる。
なぜ崇徳上皇=怨霊が定着したかというと、
上皇が亡くなって約10年後、後白河上皇の身内が相次いで亡くなり、京の都では火災や強風(竜巻か?)が多発し、鹿ヶ谷の陰謀など社会情勢や治安が大きく乱れたことが最大の原因とされる。
崇徳上皇本人は菅原道真のように、生前は静かな晩年を送ったが、相次ぐ災害のせいで祟り神と見なされ、災害を鎮めるために鎮魂の対象になった。
これに伴い、崇徳上皇は恨みを残して死んでいったという話が急速に広まり、恐れられる存在になってしまったのではないかと言われている。
崇徳さんの怨霊は、天皇が表舞台に立った時に現れ、国家の転覆を企てるのだそうで、その対象はあくまで、天皇家。
それ以外の国家権力には向けられないという。
『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面(歌川芳艶画)
崇徳天皇(1119~1164)日本の第75代天皇、諱は顕仁。
何の因果か、現在の今上天皇は、継宮明仁。
あきひと、と音が一緒なんですよね。
下記引用文をコピペさせてもらったサイトurlはもう開きませんでした。
tp://www.mipsworld.com/mizukuki/mizu004.htm
日本の「明治維新」は、実は崇徳上皇の承認の下に行われたのである。
孝明天皇の崩御で、明治天皇が践祚したのは1867年1月。だが即位はしていない。
崇徳上皇の命日である同年8月26日、明治天皇は勅使を讃岐に派遣した。
勅使は上皇の「白峰御陵」の前で、宣命を読み上げその翌日8月27日に明治天皇の即位の礼は行われた。
「新しい宮を建立したので、長年の怨念を捨てて京にお帰りください」。
そして9月6日崇徳上皇の霊は移され、700年ぶりに京へ帰って来る。
「明治」と改元されたのはその翌々日、1867年9月8日だったのである。
今の世で怨霊を信じる信じないは勝手。ただ、当時の人たちが信じたことだけは確かである。