奈良坂にある般若寺はコスモスで有名なお寺です。
先週12/4すでに初冬に入り、コスモスは楼門前にわずかに残ってました。
楼門ごしに十三重石塔がかすかに写っているのがわかります?
時間もなかったしで中には入りませんでした。
奈良市の北端、京都府との県境にほど近い旧奈良街道は歴史ある道です。
般若寺は、平安時代末期、
平家が奈良の寺社勢力に対抗した時に焼き討ちにあいその後荒廃します。
この般若寺から少し坂を登ると奈良豆彦(ならづひこ)神社があります。
ここの大楠が立派だと去年一気さんに教えてもらってましたが
やっと見てこれました。
祭神の志貴皇子にもご挨拶してきました。
この社殿左脇を裏に廻ると、
樹齢1300年、根回り12.8m、幹周囲7.5m、樹高30m
久々に立派なくすのきの大木見ました。
残念ながらその感激の全容はアングルにおさまりきらなかった。
平清盛坐像 鎌倉時代の作で重要文化財
六波羅蜜寺で見てきました。
今晩のNHK大河ドラマ平清盛は「幻の都」
もともと清盛が福原への遷都を行なったのは、
比叡山、園城寺、興福寺、東大寺といった寺社勢力と距離を置くためでもあったらしい。
清盛の思いとは裏腹に半年後に平安京へ還都せざるをえなくなる。
都にもどると、まず以仁王に加担した三井寺を焼き討ち。
続いて、清盛の五男の重衡が奈良興福寺に派遣されたのは
治承4年12月28日(1181年1月15日)
京都から宇治を通って木津川沿いに南へ下り奈良へ入る。
興福寺方は奈良坂・般若寺二か所に陣をしき抵抗。
早朝からはじまった合戦は一日中続き、夜に入り火が放たれた。
運悪くこの日は風が強く、風にあおられて火はまたたくまに広がっていく。
東大寺や興福寺などの伽藍にも炎は燃え広がり、金銅十六丈の廬舎那仏も焼け落ちたのでした。
これが南都焼討(なんとやきうち)
伝統のある仏教の聖地を、平家が燃やしてしまった…。
清盛は今晩のドラマで
「神は平家を見放した」とうなだれていました。
貴族や寺社など、既得権益にしがみつく旧勢力を否定し、
本当に国を護る者、そして国を富ます者に報いる政治を目指した清盛。
公家の時代に幕を引き、鎌倉、室町、江戸へと
700年にも及ぶ武士の時代に先鞭を付けた時代の変革者のつらい晩年の姿でした。
先週12/4すでに初冬に入り、コスモスは楼門前にわずかに残ってました。
楼門ごしに十三重石塔がかすかに写っているのがわかります?
時間もなかったしで中には入りませんでした。
奈良市の北端、京都府との県境にほど近い旧奈良街道は歴史ある道です。
般若寺は、平安時代末期、
平家が奈良の寺社勢力に対抗した時に焼き討ちにあいその後荒廃します。
この般若寺から少し坂を登ると奈良豆彦(ならづひこ)神社があります。
ここの大楠が立派だと去年一気さんに教えてもらってましたが
やっと見てこれました。
祭神の志貴皇子にもご挨拶してきました。
この社殿左脇を裏に廻ると、
樹齢1300年、根回り12.8m、幹周囲7.5m、樹高30m
久々に立派なくすのきの大木見ました。
残念ながらその感激の全容はアングルにおさまりきらなかった。
平清盛坐像 鎌倉時代の作で重要文化財
六波羅蜜寺で見てきました。
今晩のNHK大河ドラマ平清盛は「幻の都」
もともと清盛が福原への遷都を行なったのは、
比叡山、園城寺、興福寺、東大寺といった寺社勢力と距離を置くためでもあったらしい。
清盛の思いとは裏腹に半年後に平安京へ還都せざるをえなくなる。
都にもどると、まず以仁王に加担した三井寺を焼き討ち。
続いて、清盛の五男の重衡が奈良興福寺に派遣されたのは
治承4年12月28日(1181年1月15日)
京都から宇治を通って木津川沿いに南へ下り奈良へ入る。
興福寺方は奈良坂・般若寺二か所に陣をしき抵抗。
早朝からはじまった合戦は一日中続き、夜に入り火が放たれた。
運悪くこの日は風が強く、風にあおられて火はまたたくまに広がっていく。
東大寺や興福寺などの伽藍にも炎は燃え広がり、金銅十六丈の廬舎那仏も焼け落ちたのでした。
これが南都焼討(なんとやきうち)
伝統のある仏教の聖地を、平家が燃やしてしまった…。
清盛は今晩のドラマで
「神は平家を見放した」とうなだれていました。
貴族や寺社など、既得権益にしがみつく旧勢力を否定し、
本当に国を護る者、そして国を富ます者に報いる政治を目指した清盛。
公家の時代に幕を引き、鎌倉、室町、江戸へと
700年にも及ぶ武士の時代に先鞭を付けた時代の変革者のつらい晩年の姿でした。