伊雑宮の御田植式が行われる磯部の御神田です。
デジカメで撮影しましたが、やっぱり午後3時半ごろの昼下がりの光が入って、左側に紫、右側にうっすら紅色が写りこんでいます。
紺色の六芒星で記したのが伊雑宮、その左茶色の記したのが御神田、少し離れた右手の赤印が倭姫命旧跡地です。
鳥居の目の前に神武剣道場があり、石塔には六芒星がみられます。
現在伊雑宮の遷宮が執り行われるのは内宮の約1年後。
今回は平成26年11月28日でした。
かつて伊雑宮の式年遷宮は、内宮の遷宮に先駆けて行われていたとか。
伊雑宮にまつわる諸々の史実に触れますと、
国家神である天照太御神がご鎮座する本宮を、どうしても内宮にしておかなければならない抜き差しならぬ理由があるよう。
そのためには、伊雑宮を内宮の別宮扱いにし、倭姫の史実を隠す必要があったのでしょう。
実際にごく最近まで、伊雑宮の近くに住む人々でさえ、倭姫や内宮に関する話を表立って話題にはできなかったそうです。
以上の文章は、たびたび神社 というブログから引用させてもらいました。
こちらの伊雑宮の一連のエントリー記事を読ませていただき、行ってみたいという思いに駆られました。
詳しくは→こちら
一部引用させてもらいながら、倭姫命の巡幸を説明しますと
大和の笠縫邑に安置されていた八咫の鏡を託された豊鍬入姫命が、まず最初に向かったのが丹後の国(真名井神社)。
大和の国に戻ってきたのち、紀伊の国、吉備の国、再び大和の国に入りその役目を倭姫命に引き継ぐ。
豊鍬入姫命が目指したのは、その昔、天孫族(イスラエルの民)が、日本に渡来した際に上陸したであろう地点と重なっている。
そしてそれらはすべて、海人族(先住民族)の拠点であり、倭姫命が最終地と定めたのも、伊勢(磯部)という海人族の聖地であった。
豊鍬入姫命・倭姫命の巡幸というのは、自らの祖先神を祀った土地を巡る慰霊の旅であった。