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Channel: 秋麗(あきうらら)
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雲助@あいの土山宿(49番/東海道53次うち)

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滋賀県東南部の甲賀市、鈴鹿峠手前の宿場町「土山」
なんで前に枕詞のように「あいの」とつくのか
あいの土山の「あい」の意味について




8月の市広報誌に「守口宿400年プロジェクトのお知らせ」が載ってました。

滋賀と三重の宿場めぐりバスツアーが守口門真歴史街道推進協議会・守口宿400年プロジェクト委員会から企画されたものでした。

東海道は江戸日本橋から京三条までの間に53の宿場がありますが、京都から大阪までの4つを加えると57次になります。
その京街道は、伏見、淀、枚方、そして守口が57次です。

ギズモがいなくなりペットロスを紛らすために申し込みました。


鈴鹿山系の西側に広がる山間の町、土山はかつては東西交通の要所でした。
49番目の宿場町として栄えていたのに、近代の鉄道や国道1号線の敷設により取り残されたのです。

東海道伝馬館にて講話を聴く




松山正巳氏はかつて土山町長としてこの町の復興に大いに努力され、今なお東海道宿駅会理事長さんとして活躍されてます。
もともとお母さんのご実家の古民家が修復されてます。

このときに伺った、雲助の話がとても興味深かった。
助郷という言葉もはじめて知りました。


雲助(くもすけ)とは
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によれば

「江戸時代に、宿駅、渡し場、街道筋を舞台に、荷物の運搬や、川渡し、賀籠(かご)かきなどを生業とした、住所不定の道中人足をいう。
雲介、蜘蛛助とも書き、浮き雲のように住所が定まらないからなど、語源にはいくつかの説がある。
近世に農民が助郷(すけごう)の夫役(ぶやく)を代銭納するようになると、農民の労働力に依存できなくなった宿場では、専従の人足を必要とした。
1686年(貞享3)幕府は廻状(かいじょう)で、出所の知れた浮浪人の日雇人足への採用を許可している。
この宿場人足は、幕府の御定賃銭を問屋場(といやば)から支払われ、問屋場裏の人足部屋に起居し部屋頭(がしら)の支配を受け、部屋人足ともよばれた。
道中筋でたかりや人殺しなどを行い、「ごまのはい」と同じく無宿の悪漢とされた雲助は、この宿場人足とはいちおう別の、個人の営業によるものである。
荷物や駕籠を担いで道中を行くとき雲助が歌った唄(うた)を雲助唄という。」



見学後、昼食は茶房「うかい屋さん」で




手の込んだ宿駅弁当おいしかった。
献立は、虹鱒の甘露煮、しその実みそ、みょうがの味噌漬け、合鴨くんせい、こんにゃくとしいたけの煮物、かんぴょうの旨煮、いもづる佃煮風、かんぞうの花三杯酢、古代米、山菜とあげの味噌汁。

4000円の会費で、昼食代、バス代、入場料等々考えるとめっちゃお得なツアーでした。

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