ここまではスマホ撮影画像。
これよりデジカメ画像を追加します。
ところが、どこさがしても奥社の画像ないので、
戸隠神社のサイトよりもらってきました。
たぶん拍子抜けしたんでしょう。
長い歴史のある戸隠奥社がコンクリートなんだもん。
後でガイドさんより聞いたところによれば、
あまりに雪深く過去に何度も雪崩で壊されたそうです。
昭和30年代までは、ずっと雪の深いシーズンも神主さんは宿泊されて雪崩に遭遇。
そしてついに頑丈なコンクリート製お社になりました。
その奥社の下に、なんか表記のない祠跡がありました。
こんな写真まで撮ってるのに、奥社の画像ないなんて、ねぇ。
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1298(永仁6)奥院が雪崩で倒壊
1869(明治2)雪崩で倒壊
1936(昭和11)奥社・九頭龍社殿 表層雪崩で倒壊
朝御膳奉仕中の武井さんという神官が殉職した
1962(昭和37)雪崩で奥社本殿(明治8年再建)と休憩所が全壊
1978(昭和53)奥社本殿・休憩所 雪崩で流失
このため翌年の本殿再建では、岩盤をうがちコンクリート製の神殿を中に納める方式で現在に至る
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戸隠神社 御本社(奥社)
御祭神天手力男命
御由緒並びに御神徳
御鎮座年代古く人皇第八代孝元天皇の五年(皇紀二〇七)といわれ 神話に名高い天照皇大神が 御弟神須佐之男命の度重なる非行に天岩戸にお隠れになった時に 天岩戸を御開きになった神力無双の神で 開運守護の神 五穀の神 家内 安全 養蚕守護厄除諸災消除の神として 国民の弥栄の上に高大なる御神徳を恵み給う大神です。
戸隠神社 九頭竜社
御祭神九頭竜大神
御由緒並びに御神徳
地主の神で御鎮座年代古く 天岩戸 戸隠山の守神にして 神代の岩戸隠れの変に御功績を立てました御祭神 天手力男命を当山にお迎えした大神で 水分神 水口神 五穀の神 開運守 護魔除けの神 虫歯の神として御霊験あらたかに国民の多幸弥栄の上に高大 なる御神徳を恵み給う大神様です。
本来は水神である九頭龍がこの戸隠の根源神、地主神。
奥社の手力男命の伝承は、おそらく天武&持統天皇時代の付会かも。
平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺。
修験道場戸隠13谷三千坊として比叡山、高野山と共に多くの修験者や参詣者を集めました。
明治の神仏分離令により、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となりました。
戸隠神社は、戸隠山周辺に鎮座する五社(奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社)の総称です。
各自参拝をすませ杉参道入口の随神門が集合場所でした。
そこから今度は左側に広がる戸隠森林植物園へ向かいます。
鬼無里(きなさ)伝説 一夜山の鬼
昔むかし、天武天皇は信濃遷都を計画し、三野王(みぬのおう)、小錦下 釆女臣筑羅(うねめのおみつくら)らを信濃に遣わしました。
使者は信州各地を巡視して候補地を探し、水内(みのち)の水無瀬(みなせ)こそもっとも都にふさわしい地相をそなえた山里だということになりました。
そこでこの地の図を作って奉り、天皇に報告しました。
これを知った土着の鬼どもは大いにあわて、「都など出来たら俺たちの棲み家がなくなってしまう」「都が出来ぬよう、山を築いて邪魔しよう」と、すぐさま一夜で山を築いてしまいました。
これでは遷都はできません。鬼を憎んだ天皇は、阿部比羅夫(あべのひらふ)に命じて、鬼どもを退治させました。
このときから、この山里に鬼は居無くなり、鬼無里(きなさ)と呼ばれるようになりました。
戸隠神社3~牙笏 アフリカ産 天皇が献納?より
一部引用させてもらいます
「日本書紀の天武紀には「684(天武13)年、三野王(みのおう)を信濃に派遣、地図を作らせた。翌685年、朝臣(あそん)3人を信濃に派遣し、仮の宮を造らせた」とある。
また持統天皇は691年、使者を遣わし、信濃国の須波(すわ)、水内(みのち)などの神を祭らせた。この時「犀角笏奉納」と日本書紀引用の文献にあるという。
須波は諏訪の神、古代の水内は北信濃一帯のことだ。両天皇が信濃に関心を寄せたのは、道教思想による。中国の道教では、首都のほかに陪都(ばいと)=副首都を造るのを常とした。長安に対する洛陽の関係だ。
壬申の乱で政権を握った天武は、道教に通じていた。藤原宮(ふじわらのみや)を構想し、副首都として信濃を想定したという。
水内の神が戸隠の神だとすれば、象牙笏という貴重品が、戸隠神社にあるのも納得できる。」