2年前にネット検索してて、金龍寺さんに津嶋女大神の御霊代が祀られていることを知りました。
金龍寺の奥様とは近しくさせていただいてるので、拝ませてくださいとお願いしてました。
なかなか伺うチャンスなく、あっという間に2年近くの年月が過ぎていた。
今年になって守口の神社を全部挨拶廻ろうと決めて、
残すところ、佐太天神社と津嶋部神社の2社となりました。
昨日の日曜日に唐突にそのチャンスがめぐってきたのでした。
金龍寺(曹洞宗)さんは、津嶋部神社に隣接していて
今なお唯一残る津嶋部神社のかつての神宮寺の一つです。
中央のお地蔵さんの周りに壊れた石仏がいっぱいの祠もあります。
お寺近辺にころがっていたのを拾い集め祀られてるとお聞きしました。
お庭にはおもしろい鬼瓦もありました。
えべっさんです。
木の向こうは大黒さんでした。
最後に本堂の奥に案内してもらい、津嶋女大神にご対面。
奥様は鍋の蓋みたいとおっしゃってましたが、
確かに裏側に鍋の蓋の取っ手のように四角い棒木が横に打ちつけられています。
どうやら、こういうのを懸仏(かけぼとけ)というらしい。
円形の木版に銅の押出仏が貼られてます。
中央の団扇と念珠を持つ女神像は弁財天とされています。
この弁財天は津嶋女大神であり、
玄界灘の沖の島に鎮座する女神、瀬戸内海の船舶を守る厳島の女神、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)ともされました。
手にとってはいませんが、裏側には墨書があるようです。
「奉納大宮御神前、寛徳2年(1045)乙酉2月吉日、三井村中」
お話では寝屋川の「ともろぎ」からココに流れ着いたという伝承があるとか。
寝屋川市には、ともろぎ神社は二つあり、友呂岐と鞆呂岐、漢字も異なります。
香里本通町にある友呂岐神社(ともろぎじんじゃ)のお弓神事は美井(三井)に残る伝統行事と書かれてました。
ということは友呂岐神社から流れてきたのでしょうか。
金龍寺さんの母屋の北と南では土壌が違うらしい。
北側は砂地で南側は泥というか堅いそうだ。
かって淀川は現在よりやや南を流れ、その中洲のような所が津島と呼ばれた。
船着場であったことから津島江といわれ、神社と同名を憚って同音の対馬江に変えたといわれている。
津嶋部神社は、津島朝臣・津島直の一族が祖神を奉斎して創祀したといわれています。
津嶋氏は対馬を根拠地としながら、大阪湾に通じる河内湖の北の出口付近に居留地を設けたのでしょう。
5世紀には、その居留地に対馬を通じて多くの渡来民が訪れ、草香江の農地整備事業や茨田堤(まんだのつつみ)の建設事業に携わったようです。
神宮寺として金龍寺、豊蔵寺、大竜寺あったのが、現在金龍寺さんだけが残っています。