717年に泰澄大師が開いた白山平泉寺は、戦国時代には
48社36堂6千坊と僧兵8千人を擁する巨大かつ広大な宗教都市だったそうです。
1574年(天正2)一向一揆勢が平泉寺の境内を占拠し兵火により焼失して衰退。
日本では珍しい石で築かれたかつての町並みが発掘中で、今は苔むして足取られます。
熊も出るらしいです。
ウォークツアー参加者数48名、3つのグループに分けてボランティアガイドが案内してくれました。
私たちのグループの案内者は初心者だとのことでしたが、とても丁寧な説明でした。
しかしどちらかというと中世の石畳がお気に入りのご様子。
古代の神々は関心なさそうで質問しても?
帰ってからネット検索しました。
三の鳥居を写しただけで、うちらのグループは行きませんでした。
ほんというと、三の宮に行きたかった〜
ネットで拝借。
三の宮の御祭神は、 栲幡千々姫尊 (たくはたちぢひめのみこと)
本殿右側に別山社には旦那様の天忍穂耳尊が祀られていますが、その奥上に位置する三の宮。
最奥にひっそりと佇むこの社殿こそが、この白山神社全体で最も重要ってこと?
ちなみ加賀の一宮である白山ひめ神社は、石川県白山市三宮町にあります。
やはり三宮というにのにはわけありそう。
三の宮の裏から泰澄が開いた越前禅定道が白山へ続いています。
白山は、福井(越前馬場)、石川(加賀馬場)、岐阜(美濃馬場)の三県にまたがっています。
白山信仰
古来、日本では、山そのものを神聖なものとして崇拝されていました。
白山は夏でも雪が残って一年中消えることがありません。
いつでも雪をいただく神聖な山として信仰の対象となり、富士山や立山とならんで日本の三霊山として有名です。
泰澄大師以前の山岳信仰は神聖な山を遠くから遙拝するだけでした。
ところが泰澄大師は、夢のおつげに従って直接白山の頂上までのぼり、その行程の苦しさを厳しいひとつの修行としました。
白山の頂上を白山天領、また禅定ともいい、その修行の登山道のことを白山禅定道といいます。
白山信仰がひろまるにつれ、白山の神に村を守ってもらおうとする鎮守の神として多くの社が建てられていきました。
それが現在各所に見られる白山神社です。
白山平泉寺の「四至内」はおおかた一里四方でした。
中世において四至内とか、境内というのは、経済権や警察権などが白山平泉寺にあるということです。
白山平泉寺は、平安末期から佐佳枝、奥州藤原氏とも交流があり、藤原秀衡から黄金の梵鐘を寄進されたとも伝えられています。
平泉寺の最盛期は室町時代でしたが、寺領として九万石九万貫あり
1つの院や坊 の所領の石高は飛鳥鳥井宝光院は八千石、日本一の法師大名であるといわれていました。
元禄時代頃(約300年前)に特写された「中宮白山平泉寺境内図」には、多数の院や坊が山々に満ち壮大な宗教都市が描かれています。