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Channel: 秋麗(あきうらら)
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海抜0m地域の大枝ポンプ場と京阪池

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日曜日の史跡巡りは守口市南部ウォークコースでした。テーマは、『悪水と戦った郷土の義民、喜左衛門』

『悪水』という言葉初めて知ったので調べました。ライフラインの、いの一番、水。入れたら出さなきゃはどこでも同じ。水を供給するための水路(用水)使用後の水を排泄するための水路(悪水)


大枝公園南側にある大枝ポンプ場が画像の建物です。

史跡巡りは、9:30さくら小多目的室で概要講話の後、10:20からウォーク開始。さくら小校区に隣接する寺方校区へ。
土日早朝に太極拳の稽古してる大枝公園は住所が松下町です。道路一本渡るだけで校区外ゆえ、児童だけで行ったらアカンのです。うちの子供らの昭和から平成前期は大丈夫でした。いつからかわけわからん校則改悪でしょうか。
その大枝公園は昔、京阪池だったと、おっちゃんたちは口々に語る。今はその姿想像だにできません。

「大枝ポンプ場 京阪池」で検索して以下のことを知る。聞き落としたのかもしれないけれど、講師の方も参加高齢者も、ここに京阪池ありしでの話。ずーっと昔からそこにあったのかと思ってたわ。

大阪市の資料より


大正10年 (1921)京阪電鉄は、将来を見据えて高架複々線への手段として、蒲生~守口間を直線化複々線化するだけでなく、高架にして道路との平面交差をなくし、一層の高速化を図るというものであった。

その高架に、必要な土砂は三郷村字高瀬(土居駅東600m)の農地を買収、そこから土砂を採取した。

そのため採取地には東西約250m、南北約300m、最深部10mの大きな穴が空き、人工池が出現した。

この池は「京阪池」(現在は大枝公園)と名付けられた。

京阪池は、その後は農業用の調整池として使われたが、

1968年頃には農地が減っていたこともあり、池が埋め立てられて現在の大枝公園に変わった。

『京阪電車の旧線を歩く(3)京阪池の跡地編』

「京阪電車の旧線を歩く」の続編です。最初に、少しだけ土居駅の歴史を説明した後で、今は消滅している「京阪池」についても触れてみたいと思います。かなり改良されてい…

鉄道で行く旅

 



生活を営むのに不可欠な水ですが、不用な水はしばしば災害を招きます。海抜0m地域での暮らしは大変で工夫が要ります。

古代、淀川と大和川が流れ込む中河内、北河内は河内の海。やがて河内潟湖になり、江戸時代には大和川付け替えにより河内池まで縮小。それでも大和川は天井川なのでたびたび氾濫してます。1885(明治18)年の淀川決壊、1802(享和2)年の大洪水、等々、大きな被害が出たようです。
さらに遡り、江戸初期の話。旧寺方一帯12ヶ村の庄屋の喜左衛門は、その行いにより義民と称えられ、記念碑があり、そこを訪れました。以前より喜左衛門の名前は聞いてたけど、守口で暮らし出した1980年以来初めて。先の記事の、和泉式部の墓のとこ。
その1634(寛永11)年の事件あらましは、以下で
喜左衛門記念碑(守口市)

1882(明治15)年になってこの地に記念碑が建てられたようです。同じ地に寺方提灯踊発祥の地石碑も




幕府に逆らった喜左衛門の墓はつくれない。なので寺方村の人々は、提灯踊りとしてその功績を伝承したそうです。
石碑の上に一部写ってる鉄柵柱


火の見櫓でした。今でも使ってるのかな〜


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