大川にかかる歩行者専用の飛翔橋を見た後向かったのは、善源寺楠公園の桜宮御旅所。
信号ある交差点の公園角に
駒繋楠石柱立ってました。鳥居があって八幡宮のようで、お参りされてる方おられました。
祠後ろにでっかい楠見えました。全景写すのにもっと引いて撮影したいけど、車通るし、電動自転車で撮影ままならん。
角周ったらまた鳥居あって、その上越しに枯れたような部分が見えました。
帰ってから検索したらよくわかる画像が
「鵺が眠るまち」ウォーキングツアー10/19に終了してました。こういううのに参加するとガイドさんが説明してくださるのでよく分かりますね。
地図見てる時、善源寺という地名がなんか意味ありげに思えました。調べましたら、
当地は旧善源寺村の産土神社が鎮座したところで、1909年(明治42年)に櫻宮に合祀され、現在は櫻宮のお旅所となっている。
この産土神社の境内に「渡辺綱駒つなぎの楠木」呼ばれる樹齢900年と推定される大樹があったが、残念なことに戦災に遭い、枯死してしまっている。
周辺はかつて 善源寺荘と呼ばれ、大江山の酒呑童子退治で有名な源頼光が支配する荘園であった。
楠木は平安時代の中頃、長徳年間(995~9年)源頼光が一族の武神「八幡大神」を祀り、この地に産土神社を社を創建する際に植えたといわれ、この荘園の管理をまかされていた頼光四天王の1人、渡辺綱が、産土神社に詣でるとき、いつも馬をこの楠木につないだため、この呼称がついたと伝えられている。
都島区のホームページでは、これらの伝承は、この地が鎌倉時代には摂津源氏の多田院領善源寺荘であったこと、楠木の約900年という樹齢の古さから、源頼光や渡辺綱に結び付けられたのではないかとしてる。
この画像は2012/1/2 で使ったものです。
なんでもすぐ忘れますが渡辺綱は記憶に留まってました。当時こう書いてます。
>渡辺の津は、鬼退治で有名な渡辺綱(嵯峨源氏)を祖とする渡辺氏をはじめ、武士団の生まれた場所でもあり、彼らの瀬戸内水軍の拠点として束ねる場所でもあったのです。
詳しくは以下で上町台地を歩く★坐摩神社行宮 - 秋麗(質オザサ店主ブログ)
その前の年 20114/9渡辺党からミセスワタナベまで - 秋麗(質オザサ店主ブログ)
信号ある交差点の公園角に
駒繋楠石柱立ってました。鳥居があって八幡宮のようで、お参りされてる方おられました。
祠後ろにでっかい楠見えました。全景写すのにもっと引いて撮影したいけど、車通るし、電動自転車で撮影ままならん。
角周ったらまた鳥居あって、その上越しに枯れたような部分が見えました。
帰ってから検索したらよくわかる画像が
「鵺が眠るまち」ウォーキングツアー10/19に終了してました。こういううのに参加するとガイドさんが説明してくださるのでよく分かりますね。
地図見てる時、善源寺という地名がなんか意味ありげに思えました。調べましたら、
当地は旧善源寺村の産土神社が鎮座したところで、1909年(明治42年)に櫻宮に合祀され、現在は櫻宮のお旅所となっている。
この産土神社の境内に「渡辺綱駒つなぎの楠木」呼ばれる樹齢900年と推定される大樹があったが、残念なことに戦災に遭い、枯死してしまっている。
周辺はかつて 善源寺荘と呼ばれ、大江山の酒呑童子退治で有名な源頼光が支配する荘園であった。
楠木は平安時代の中頃、長徳年間(995~9年)源頼光が一族の武神「八幡大神」を祀り、この地に産土神社を社を創建する際に植えたといわれ、この荘園の管理をまかされていた頼光四天王の1人、渡辺綱が、産土神社に詣でるとき、いつも馬をこの楠木につないだため、この呼称がついたと伝えられている。
都島区のホームページでは、これらの伝承は、この地が鎌倉時代には摂津源氏の多田院領善源寺荘であったこと、楠木の約900年という樹齢の古さから、源頼光や渡辺綱に結び付けられたのではないかとしてる。
この画像は2012/1/2 で使ったものです。
なんでもすぐ忘れますが渡辺綱は記憶に留まってました。当時こう書いてます。
>渡辺の津は、鬼退治で有名な渡辺綱(嵯峨源氏)を祖とする渡辺氏をはじめ、武士団の生まれた場所でもあり、彼らの瀬戸内水軍の拠点として束ねる場所でもあったのです。
詳しくは以下で上町台地を歩く★坐摩神社行宮 - 秋麗(質オザサ店主ブログ)
その前の年 20114/9渡辺党からミセスワタナベまで - 秋麗(質オザサ店主ブログ)