大内宿リーフレットの写真は、先の記事最後に載せた画像
見晴台から一望できる同じアングルです。
小さな宿場町でさっさと歩けば突き当たりまで10分もかからない。
小高い山は湯殿山と、どこかでみたような。
子安観音の階段90段近く上がります。右に行くと
見晴らしよくて絶景撮影ポイント。弁天さんも祀られてます。
そのまえの急階段降ります。
この時点で残り30分。大内宿中ほどで見た高い鳥居ありましたが本殿までは片道5分はかかりそうでパス。
高倉神社は、平安末期、平清盛全盛期に反平氏の挙兵をした以仁王を祀ってます。戦い敗れ都落ち時に立ち寄ったという伝承が残ります。
後白河天皇第二皇子高倉宮以仁王(もちひとおう)は、山本村と呼ばれてたこの里に立ち寄られ、その後越後へ。都の風情に似ているということから大内村と改められたそうです。
後を追ってきた正室のお供の桜木姫はこの地で亡くなったとか。墓もあるようで史実なんでしょうね。
大内宿で検索すると、行き方きいてないのに、AIが真っ先に表示するのは
陸路なら日本海沿いに北上したら早いよと教えてくれる。ツアーで新潟から入るのあながち間違ってなかったんだ。
大内観光協会の説明がわかりやすい。
大内宿は、会津城下と下野の国(しもつけのくに)(栃木県日光市今市)を結ぶ
全長130km(32里の区間)の中で、会津城下から3番目の宿駅として
1640年ごろに整備された宿場町です。
会津西街道は関東側からの呼称で、
会津側からは下野街道(しもつけかいどう)あるいは南山通りとも称されていた。
会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、
当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線でした。
また、以前の記録では天正18年(1590)伊達政宗の小田原参陣、
同年の豊臣秀吉の奥羽仕置きに当宿場を通行した記録がある。
会津藩初代藩主 保科正之が整備した大内宿。参勤交代は会津若松城から江戸まで61里(244km)で、5泊6日だそう。会津若松を朝早くでて、5里足らずの大内でお昼ご飯だって。日に40kmも ( ゚д゚)
ちなみに保科正之は3代将軍家光の実弟だったんですね〜
地震速報でよく見聞きする福島県浜通り、中通りもどこかよくわかってなかった。
浜通りは太平洋側、中通りは阿武隈高地と奥羽山脈間で阿武隈川流域。猪苗代湖西側に阿賀川、新潟入ると阿賀野川となり日本海へ。今までじっくりこの地の地図見たことなかったです。
会津藩は、江戸へ行く道として西会津街道整備して、重いお米は川運輸で日本海から大阪へ運んでたんですね。
大内という名に隠された伝説〜以仁王と桜木姫をめぐる悲劇の物語〜 | HISTRIP(ヒストリップ)|歴史旅専門サイト江戸時代の宿場町の街並みが残る福島県下郷町の大内宿。 大内宿には、平安時代から今なお残る高倉宮以仁王の伝説があります。 平氏に追われ逃げてきた以仁王がこの村に数日間潜伏していたと伝えられているのです。 また以仁王の側室・桜木姫の悲しき最期を迎えたところとも言われています。