今年は新型コロナのせいで全国的に祭りがぶっ飛んだ。大枝も例年なら秋祭りに備え笛や太鼓の練習があった。今年はさびしいなと思ってて、やっと気づいたことがあります。
昨春、大枝神社の地車は補修から戻り美しくなりました。その記念にもらった絵葉書よくよく見たら
「生い立ちは明治初期 東大阪の弥刀神社に宮入」今頃になって目に留まった、やっと。
2004年の台風で鳥居にヒビ入り、氏子さんに寄付募られ再建。お金が残ったので中古の地車購入し、2007年12月に搬入された日見に行った。過去ログ探したけど記録残してなかった。初記事は2008年7月5日夏祭り・初だんじり - 質オザサ店主ブログ
10年過ぎてだいぶあちこち傷んでたので、2018年秋祭り終え修理に出されたのだった。
中古は知ってたけど、具体的にどこの神社か知らなかった。東大阪の弥刀神社のものだったんだ。
2008年10月の秋祭りで新しい地車お披露目されてる記事発見。
弥刀神社に興味津々、調べてみました。
「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼このサイトにはこう書かれてます。
旧大和川(現:長瀬川)が河内湖に注ぎ込む河口付近の港、いわゆる水戸(水門:みと)の守護を願って造営されたと考えられているが、定かではない。ちなみに、このあたりは、一大港湾にのぞむ大きな水戸(河口)であったことから「大水戸」(おおみと)と呼ばれ、それが訛って「近江堂」(おうみどう)という地名になったと聞く。 江戸時代における弥刀神社は、当時の流行であった「牛頭天王」が祀られていた 。明治の神仏分離政策を受けて、他の牛頭天王を祀っていた神社がそうしたように、弥刀神社もまた牛頭天王を廃し、須佐之男命に変更して摂社に。
摂社八坂神社は拝殿の右奥にあるようで、鎮守の森に守られたその奥に、春日造りの萱葺の社が鎮座する ようだ。八坂神社の向かい側に、大己貴命を祀る「常世神社」が鎮座。そのうちに確かめに行きたいな。
弥刀神社においては、その歴史的観点から、主祭神は速秋津日子神・速秋津比売神とし現在に至る。
彌刀神社の創建は明らかではないが、天平宝宇6年(762年)6月の旧大和川(長瀬川)の大氾濫で、由来となる建物や器物が流失したというから、奈良時代には存在していた。
河内国の古社の多くは、その祭祀氏族が明確であり、氏神として祀られた祭神もある程度明確にされてきた。枚岡神社・恩智神社(中臣氏)、石切神社(穂積氏)、弓削神社(弓削氏)、矢作神社(矢作氏)、渋川神社(物部氏・中臣氏・忌部氏)、跡部神社(阿刀氏)、穴太神社(穴穂部)、八尾神社(栗栖氏)、御野県主神社(美努連氏)などなど。。。物部ワールドである。しかし、この弥刀神社は、祭祀氏族がよくわからない。よって祭神もよくわからない謎の神社
明治5年(1872)村社として登録されている模様。このころに地車が宮入りし、それがまわりまわって大枝神社へ。ということは、主祭神速秋津日子神・速秋津比売神の御神気を受け継いだということでいいのかな?
神社名の「弥刀」は、一般的には河口・港の「水戸」に由来するとされる。実際、「みと」と入力すると、真っ先に出てくる漢字は水戸。 別の説は神名帳の最古の写本によると、「弥刀」は「いやと」と読ませている。少なくとも平安時代には「みとの神社」ではなく「いやとの神社」と呼ばれていたということになる。「弥」は「弥栄(いやさか)」の「いや」。「刀」は文字通り「カタナ」の意として考えると、そもそもは「(一族の)繁栄を願って神刀を奉斎した」神社であったのではなかろうか。
そこで弥刀で調べてて、こんなの見つけました。
<神武天皇を支えた七大臣>中臣春武の命、中臣道之臣人の命(この二人がアメノコヤネの子孫)斎部差別の命、太玉大富の命(この二人がフトダマの子孫)科津靱之男の命(シナヅトベの子孫?)弥都波若菱守の命(ミズハノメの子孫?)手力佐韋花の命(タヂカラオの子孫?) 引用元は蘇我氏はフトダマの子孫だった!
継続調査中・・・
昨春、大枝神社の地車は補修から戻り美しくなりました。その記念にもらった絵葉書よくよく見たら
「生い立ちは明治初期 東大阪の弥刀神社に宮入」今頃になって目に留まった、やっと。
2004年の台風で鳥居にヒビ入り、氏子さんに寄付募られ再建。お金が残ったので中古の地車購入し、2007年12月に搬入された日見に行った。過去ログ探したけど記録残してなかった。初記事は2008年7月5日夏祭り・初だんじり - 質オザサ店主ブログ
10年過ぎてだいぶあちこち傷んでたので、2018年秋祭り終え修理に出されたのだった。
中古は知ってたけど、具体的にどこの神社か知らなかった。東大阪の弥刀神社のものだったんだ。
2008年10月の秋祭りで新しい地車お披露目されてる記事発見。
弥刀神社に興味津々、調べてみました。
「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼このサイトにはこう書かれてます。
旧大和川(現:長瀬川)が河内湖に注ぎ込む河口付近の港、いわゆる水戸(水門:みと)の守護を願って造営されたと考えられているが、定かではない。ちなみに、このあたりは、一大港湾にのぞむ大きな水戸(河口)であったことから「大水戸」(おおみと)と呼ばれ、それが訛って「近江堂」(おうみどう)という地名になったと聞く。 江戸時代における弥刀神社は、当時の流行であった「牛頭天王」が祀られていた 。明治の神仏分離政策を受けて、他の牛頭天王を祀っていた神社がそうしたように、弥刀神社もまた牛頭天王を廃し、須佐之男命に変更して摂社に。
摂社八坂神社は拝殿の右奥にあるようで、鎮守の森に守られたその奥に、春日造りの萱葺の社が鎮座する ようだ。八坂神社の向かい側に、大己貴命を祀る「常世神社」が鎮座。そのうちに確かめに行きたいな。
弥刀神社においては、その歴史的観点から、主祭神は速秋津日子神・速秋津比売神とし現在に至る。
彌刀神社の創建は明らかではないが、天平宝宇6年(762年)6月の旧大和川(長瀬川)の大氾濫で、由来となる建物や器物が流失したというから、奈良時代には存在していた。
河内国の古社の多くは、その祭祀氏族が明確であり、氏神として祀られた祭神もある程度明確にされてきた。枚岡神社・恩智神社(中臣氏)、石切神社(穂積氏)、弓削神社(弓削氏)、矢作神社(矢作氏)、渋川神社(物部氏・中臣氏・忌部氏)、跡部神社(阿刀氏)、穴太神社(穴穂部)、八尾神社(栗栖氏)、御野県主神社(美努連氏)などなど。。。物部ワールドである。しかし、この弥刀神社は、祭祀氏族がよくわからない。よって祭神もよくわからない謎の神社
明治5年(1872)村社として登録されている模様。このころに地車が宮入りし、それがまわりまわって大枝神社へ。ということは、主祭神速秋津日子神・速秋津比売神の御神気を受け継いだということでいいのかな?
神社名の「弥刀」は、一般的には河口・港の「水戸」に由来するとされる。実際、「みと」と入力すると、真っ先に出てくる漢字は水戸。 別の説は神名帳の最古の写本によると、「弥刀」は「いやと」と読ませている。少なくとも平安時代には「みとの神社」ではなく「いやとの神社」と呼ばれていたということになる。「弥」は「弥栄(いやさか)」の「いや」。「刀」は文字通り「カタナ」の意として考えると、そもそもは「(一族の)繁栄を願って神刀を奉斎した」神社であったのではなかろうか。
そこで弥刀で調べてて、こんなの見つけました。
<神武天皇を支えた七大臣>中臣春武の命、中臣道之臣人の命(この二人がアメノコヤネの子孫)斎部差別の命、太玉大富の命(この二人がフトダマの子孫)科津靱之男の命(シナヅトベの子孫?)弥都波若菱守の命(ミズハノメの子孫?)手力佐韋花の命(タヂカラオの子孫?) 引用元は蘇我氏はフトダマの子孫だった!
継続調査中・・・