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Channel: 秋麗(あきうらら)
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湖北の歴史と 国宝「菅浦文書」

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菅浦文書は、2018年3月9日 国宝指定されました。大正まで須賀神社の「開かずの箱」に秘蔵されていました。
中世の村の自治組織「惣村(そうそん)」の姿が記録された貴重な資料です。これまでに国宝に指定された文書は武家や寺社が記したもので、庶民が記した文書が国宝に指定されるのは初めてだそうです。


琵琶湖の北の方かなりの部分が長浜市なんですね。琵琶湖をサイクリングで一周するビワイチ、湖北では湖岸線を離れざるを得ない地形です。

菅浦の集落は、前に湖があり後には山が迫っているので、村人は昭和46年に道が整備されるまで、学校へ行くにも船を使っていたぐらい。田んぼや畑などの耕地も村の周囲にはなかった。

https://www.mapion.co.jp/m2/35.460530126483754,136.14223478329492,13/layer=map3dマピオンの地図の貼り方わからない。
この地図の、青いルート発と記した地点が大浦、着が菅浦青い線途中、大浦に近いあたりに2か所平地があります。バスからの車窓でも、ここやとすぐわかりました。その日指・諸河という耕作地は、菅浦にとっては大切な田んぼであったので、約200年にわたって大浦と争った。その抗争の記録が菅浦文書に残されているそうです。
菅浦文書は、数少ない中世庶民史料と評価され、また村落研究の好史料として、とくに「惣」研究における典型例として紹介されてきました。
惣村とは、中世農民の自治的な共同組織鎌倉時代の終りから室町時代にかけて、菅浦には住民が集って村の中のことを決める自治組織「惣」という組織があった。
「惣」は今の警察の仕事である、悪いことをした人を捕まえることが出来た。
その犯人を裁くという、今の裁判所の役目も果たしていた。
小さな村のみずからの自立的・自治的な共同組織です。農業の共同作業、戦乱に対する自衛などを通じて村民の結合も強まった。
神社の祭礼では、東西の組が毎年交代で当番を務め、その組の9人が「神主」として、氏子総代らとともに神事を担う。
神主は3人ひと組で、4カ月ごとに交代。
本殿などの鍵の管理や毎月1日のお参りなどが務めで、普段は菅浦を離れている人も多くが帰省して役目を果たすそうです。

菅浦の湖岸集落景観 - 長浜市PDF 237ページより引用
菅浦の地域に初めて人間が住み始めたのは縄文時代のことである。
葛籠尾崎先端から東の琵琶湖の湖底に位置する葛籠尾崎湖底遺跡からは縄文時代早期の深鉢が出土している。

天皇に奉仕する供御人
菅浦の住民が天皇に飲食物を献紌する供御人になったのは天智天皇の頃という伝説がある。しかしこれには根拠はなく、漁労と舟運を生業とする菅浦の人々が供御人になったのは12世紀半ばと考えられる。

【供御人】くごにん とは、         平安時代から室町時代にかけて、朝廷に属し、天皇の飲食物を貢納していた人々。                  淳仁天皇  はホントにこの地で住まわれたのだろうか。
須賀神社はもと保良神社といった。1910(明治43年)小林神社、赤崎神社を合祀し、当社の旧称菅浦大明神に因んで須賀神社と改称した。この地には、764(天平宝宇3年)保良宮が営まれ、同5年から6年まで淳仁天皇が隠棲されたという伝承が残り、淳仁天皇を祭神とする。
ご神像は、帝がこの地におわせし時、御自ら榧の木を採ってご彫刻になったものと伝わる。 毎年4月3日に行われる例祭は、3基の御輿の渡御があり、古例による幣祭も伝統よく守られている。
当地では淳仁天皇薨逝の年より50年毎に法要を営む旧慣がある。1863(文久3年)に1100年祭、1963(昭和38年)に1200年祭、直近では2013(平成25年)に1250年祭 。
綿々と受け継がれてるということ、何にもなくてこれだけ長く継続はできないと思います。

伝承 参照先はこちら
758年(天平宝字2年)に即位された淳仁天皇は、ただの虚位に過ぎず、出される政令は孝謙上皇のものばかりであった。
上皇は当初恵美押勝(藤原仲麻呂)を起用したが、後に道鏡を起用し寵愛され、両者の間柄を詰問された天皇と上皇は不和となった。
上皇は怒って奈良の法華寺に籠居し、天皇も近江から平城宮に還御になった。
間もなくして、道鏡に寵を奪われた押勝が反乱を起こしたが高島で敗れ一族全滅した。天皇は淡路に流され「淡路の廃帝」と称されるようになる。
その後は、太平記によると「天皇は僅かの従者と共に、淡路の高島に幽閉されたが、ひそかに謀略を以て配所を抜け出し、従者と逃げたが、追っかけられて捕まり
ここで薨逝された、が実は弑せしなり」とある。 しかし、菅浦では、淡路は淡海の誤りで高島も、湖北の高島であると信じ、帝が行在中、みずから榧の木で御躬(み)の御肖像と后妃の御肖像を彫刻されて、「何所に寿を終えるも神霊必ずこの肖像の留め置く」と述べられたことから、その場の周囲を石で船型に積み、一社を創立して廃帝を祭ったとされる。
この社を保良神社といったのも、そこが保良の宮跡だからで、また葛籠尾崎の名称も、帝の遺体を奪って、高島からつづらに入れて運んだことから名付けたと伝える。須賀神社本殿の裏には船型御陵と伝わるものが残されている。                                                                  



その後の菅浦の歴史
舟運、漁労を生業としながら日指・諸河の田畑を耕作していた菅浦は、平安時代に大浦荘から自立。以後日指・諸川の田畠の領有をめぐる大浦との争いや村落の滅亡の危機。
戦国時代に入り、浅井氏が湖北を支配するようになると、戦のための舟や年財の徴収がされ、また菅浦の自治について干渉するようになった。
江戸時代の膳所藩支配。
葛籠尾山の領有をめぐる延勝寺村との山論など、幾多の困難を乗り越えてきた。
菅浦の人々は村落の成立以来、誇り高い自立の精神を受け継ぎ今に伝えている。
こうした永い歴史的な風土と人々の生活やなりわいによって培われ、菅浦はその形を変えつつも独特の風景を造り出し今に伝えている。


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