うきは市の白壁通り散策で見かけました。板壁に貼り付けてありました。たぶん忘れ物は、犬の💩面白~い ♪ (#^ー°)v
1年前水道栓蓋上に、
厳禁!! と貼り紙したのとずいぶん趣き異なりますね。
うきはの白壁が黒塗りされた跡ですって。戦時中に白だと目立って爆撃されないようにという工夫です。
うきはで2006年に食べただご汁定食美味しかったと書きました。今回は原鶴温泉での昼食も、道の駅で買ったお弁当も口にあいました。筑後川のこの辺り、温泉あるし食べ物イケてる
めっちゃエエとこやんと、地図をしげしげ眺めてみる。
街散策で行ってはないけど、若宮八幡宮の右手に月岡古墳、日岡古墳が目に留まりました。
日岡古墳って、加古川刑務所見学した時ありました。2018-06-14 交通事犯受刑者も収容する加古川刑務所
広い構内見学させてもらって、日岡山が気になりました。
加古川の地名由来も含め、調べてみました。
このあたり、加古川市大野、日岡神社があるこの一帯の小高い岡には、前方後円墳4基、円墳11基ある古墳群でした。
景行天皇の后、稲日太郎姫陵(いなひおおいらつめ)のひれ墓も。
この丘が日岡山となずけられたのは、・・・・・・つづく
この記事の最後に つづく としながら続きは書けてません。よくわからなくなって、あっという間に一年が過ぎてた。
そして今年9月、また日岡が目に飛び込んできました。同じ日岡だし、景行天皇だし。
また「うきは」、という地名由来も気になる。
日本書記 巻第七 景行天皇(岩波書店)
景行天皇十八年八月、的邑(いくはむら)に到りて進食(みをし)す。是の日に、膳夫等、盞(うき)を遺(わす)る。故、時人、其の盞を忘れし処を号(なづ)けて浮羽(うくは)と曰ふ。今的(いくは)と謂ふは訛れるなり。昔、筑紫の俗(ひと)盞を号けて浮羽と曰ふ。
盃=酒盞(うき)
「うき」がないとは! 「うき」は!→「うきは」「浮羽」と変化した
第12代景行天皇は、土蜘蛛や熊襲を平定して九州を大和朝廷の勢力範囲とした。景行天皇自ら征西すること7年、
天皇が熊襲を平定した後も、九州のこの地に長く留まったようです。
なんで、うきは が最後だったのか、な?
日岡古墳(ひのおかこふん)
所在地 うきは市吉井町若宮366-6
指定種別 国指定史跡 昭和3年2月7日
日岡古墳は月岡古墳・塚堂古墳とともに若宮古墳群を形成します。
この古墳群は現在の筑後川より1kmほど入った平野部に位置する古墳です。
3基とも前方後円墳で、古墳時代中期から後期にかけてこのあたりを統治した首長の墓と考えられています。
その中で、日岡の古墳のみに装飾が施されています。
古墳時代後期に造られた全長約74mの前方後円墳で、1重の周溝が巡っています。
後円部にある横穴式石室の壁全体に様々な文様が描かれており、壁画系の装飾古墳の中で古いタイプのものです。
石室の構造はやや内傾して側壁を積み、奥壁には幅2.2m以上、高さ19m以上の大石をほぼ垂直に立てて鏡石としています。
奥壁の頂部には2~3段の割石を積み、石棚を設置しています。
描かれた文様は、奥壁に赤・白・緑色を使い、6個の大型同心円・蕨手文・連続三角文などが、周壁には赤・白・青色を使用し、同心円文や三角文といった幾何学的な文様のほかに、盾や靫(ゆき)、太刀などの武具・魚・船・馬・獣などの文様が描かれており、場所によって色の使い分けがあるようです。
天井石が石室の床面に崩落しているので、上からのぞき込む形で見学することができます。
いっぽう、加古川の日岡山古墳(褶墓古墳) は、宮内庁陵墓として指定管理 されています。前方後円墳の長さは約80mで同じような規模です。
景行天皇の后、印南別嬢(いなみのわきいらつめ)が亡くなり、その亡骸を日岡に葬ることになりました。ところが亡骸を乗せた船が印南川(加古川)を渡っていると、突然の突風が吹き亡骸は川へ流されてしまった。さんざん探したにもかかわらず、見つかったのは褶と櫛箱のみ…仕方なくこの二つを入れた墓のためにこの墓を褶(比礼)墓と呼ぶ。
景行天皇と印南別嬢の間には、大唯(おおうす)小唯(おうす)という双子の皇子が生まれ、小唯が後に地方豪族を平定した古代の英雄、倭健命(ヤマトタケルノミコト) です。
なんか、いろいろ腑に落ちないとこいっぱいあって収拾がつかなくなりました。また去年同様、ここで唐突におわることにします。とても月岡古墳まで頭が回りません。
古代史のミステリーですもの。