姫島の東側、拍子池に着いて真っ先に向かったのが、ひめこそ神社。11:30にお昼ごはん処の予約で、時間がない。案内嬢について行くのが精一杯だった。
10:30から滞在時間わずか5分でした。まさかバスで島内巡りできるなんてつゆ思わず。おまけに出発前はメルキィのことで頭いっぱいだったし。帰ってから調べました。
比売語曽社の由来(案内板より)垂仁天皇の御代、意富加羅国(おほからのくに、今の韓国 南部)の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、ある日 黄牛に田器を負わせて田舎へ行くと、牛がいなくなった。捜していると老翁が現 われて「おまえの捜している牛は郡公が 殺して食った」という。阿羅斯等は郡公の館へ行って牛の代償を求めると、郡公は白石を与えた。阿羅斯等が白石を持ち帰り寝室に置くと、白石は美女になった。 阿羅斯等は大変喜んで求婚すると、美女は忽ち消えてしまった。阿羅斯等が追い求めると、美女は海を渡って日本国に入 り、摂津の難波を経て豊後姫島に至り、 比売語曽の神となった。
姫島は、古事記では「女島、亦の名を天一根」とある。その古事記の応神記に、天之日矛(あめのひぼこ)は阿加流比売(あかるひめ)という赤玉から生まれた姫を追って来た。
いっぽう日本書紀では、垂仁天皇の御代、意富加羅国の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追って来たのは、白石から生まれた姫神が、摂津を経てやってきた。
古事記 712年完成応神天皇 天之日矛赤玉から生まれた姫阿加流比売
日本書紀 720年完成垂仁天皇都怒我阿羅斯等白石から生まれた姫神
ともに天武天皇の命を受けて作成され、国内向けか対外向けがの違いはあったにしろ、なんで微妙に違ってるのでしょう。赤い玉を白い石にわざわざ変える理由ってあったのでしょうか。
現代の西淀区に姫島という地名があり、姫島神社があります。行ったことないのですが、そこの神社略記には、
『創建年代は不明だが、・・・江戸時代以前から産土神としてアカルヒメを祀っていたと考えられる。・・・当地は、古代難波八十島のひとつであった比売島がこの地に当たると伝えられてきた』 とあり、続けて比売許曽(ヒメコソ)伝承を略記しているそうです。
でもね、仁徳天皇の時代に淀川の整備で茨田の堤を築いたと記され、その伝承地は大阪市鶴見区や旭区、あるいは門真市など守口市近辺です。あの時代までの大阪湾は現代の大阪平野まで入りこみ、上町台地の東側は河内の海でした。西淀川区のあたりはまだ海の中だったと思います。
大阪市東成区、鶴橋駅の近くに比売許曽(ひめこそ)神社があります。過去二回参拝するも、現代の祭神は下照姫で、ちゃんと記事にできていない。志摩にたどり着けずに、鶴橋で - 質オザサ店主ブログ
平野区には
あかるひめ神社の桔梗の造花★7/28追記 - 質オザサ店主ブログこのあかるひめ神社は実に興味深いものがありました。
摂津国風土記逸文に比売島の松原は 『昔、応神天皇の御代に、新羅国の女神(比売許曽の神=赤留比売)が夫から逃れて来て、しばらく筑紫の伊波比(イハヒ)の比売島に住んでいたが、「この島は新羅国から遠くない。ここにいたら夫が尋ねてくるだろう」といって、摂津国の比売島に移って来た。だから、元いた土地の名をとって、この島を比売島という』これによれば、大分の姫島の方が先住地で、のちに大阪の姫島へとなってます。参照元http://www.y-tohara.com/hime-himejima.html
こちらのサイトによれば、守口市高瀬あたりも可能性ありと書かれてました。このあたりに姫島という地名残ってないかな~
周防灘と伊予灘の境にある姫島の神社で見落としたとこ含め興味深かったのは⇒アカル姫と比売語曽(ひめこそ)社(大分県姫島村) http://nanasegawa.mayonakasketch.jp/blog-entry-40.html
謎は深まるばかり・・・