大阪新世界のシンボル通天閣は創立100年を記念に南海地震等に備え世界初の免震展望タワーとして生まれ変わった。
地上12mのエントランス天井に、直径17mの八角形、花園で遊ぶ3羽のクジャクが百年を超えて蘇りました。
原画「花園に遊ぶクジャク図」沖谷晃司氏
詳しくは→クラブコスメチックス
明治45年(1912)初代通天閣のエントランス大天井に、クラブコスメチックスの前身である「中山太陽堂」は、クジャクや季節の花々を配した大変華やかな天井画の広告を掲出していた。
昭和18年(1943)通天閣のそばの映画館が炎上し、その影響で通天閣の鉄骨がねじ曲がり、ついには戦時下の鉄材供給の名目で解体されてしまった。
2代目通天閣は昭和31年(1956)に誕生、改修工事でその天井画が今回復刻された。
免震レトロフィットタワー 通天閣改修工事
通天閣の入場口のすぐわきに、王将碑
何度も通天閣の下通ってけど、今回指摘を受けて初めて気づいた。
♪吹けば飛ぶよな 将棋の駒に~
この王将の3番の歌詞
♪明日は東京に 出て行くからは
何が何でも勝たねばならぬ
空に灯がつく 通天閣に
おれの闘志が また燃える
将棋棋士の阪田三吉さんがモデルとなった懐メロです。
坂田と表記されることもあり一定しないようです。
堺県大鳥郡舳松村字塩穴出身
1870年7月1日(明治3年6月3日) - 1946年(昭和21年)7月23日)
スパワールドの階段上から撮影した画像は、先の記事で紹介しました。
その階段のすぐ下に、大阪国技館跡の碑
第5回内国博覧会跡地が整備され、明治45年(1912)に通天閣が建ち新世界誕生。
儒学者藤沢南岳氏の命名で「天に通じる高い建物」という意味。
通天閣と同時に、南側に遊園地「ルナパーク」が開園するも次第に来場者減少。
大正12年(1923)閉園、その跡地に映画館や演芸場ができてお笑いの大阪文化の中心地となっていく。
大正8年(1919)には大阪国技館が建設され、大正14年(1925)まで大阪相撲の興行があった。
その後建物は映画館となり、空襲で焼失。
スパワールドから南側の線路を挟んで、緑★で記した地が「てんのじ村」
朝ドラ「わろてんか」のゆかりの地、大阪のお笑いの原点です。
大阪の寄席芸人が住んでいた町・てんのじ村
このサイトより一部引用せてもらいます。
「てんのじ村」は天王寺駅から通天閣・動物園前方向に下がって行く、阪神高速の入り口近くにあります。
現在は西成区山王(旧天王寺村)という地名ですが、一帯の長屋は、道頓堀、千日前、新世界といった演芸街に近かったため、芸人が集まる町で、角帯姿や三味線を抱えた二人連れが行き交い、三味の音に踊る影絵が障子に映り、稽古が夜遅くまで続いていたそうです。
こうした三味線をじゃんじゃん鳴らすからじゃんじゃん横丁って名前ついたと聞きました。
歴史をさかのぼると、聖徳太子が四天王寺を建てる時に職人たちを慰めるために芸人たちを集めたという記録もあるようですが、どうやら芸人の地位が低かった明治時代に環状線の外に彼等を追いやったのがもっとも確かな町の始まりだと考えられています。
近くに飛田遊廓もあったこともあり、昭和の初め頃から終戦の年あたりまで、最盛期には300人から400人くらいの芸人たちが住み、呼び掛けるとすぐに10組程度の一座が組めたほどでした。
その後、社会情勢の大きな変化とともに衰退の一途をたどり、今では20代の芸人は海老一すずめだけで、あとはみな70才以上ばかりとなっていますが、戦災でも焼けなかったため、往時の面影を残す長屋は今でも健在です。
かつてはミヤコ蝶々、人生幸朗、海原お浜・小浜たちもこの町の住人で、ミヤコ蝶々が通りで寝そべってヒロポンを打っていたというのは有名な話しです。
つづく