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Channel: 秋麗(あきうらら)
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ヌックマムとパクチーと、氷室神社

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先の日曜日、正倉院展見る前にならまちでベトナム料理店でランチ。
2002年にホーチミン行って以来15年ぶりのベトナム料理です。

次から次へと人が入って混んでるのでびっくりでした。

ベトナムの魚醤をヌックマムというのですね。
タイのナンプラーよりしょっぱくない。
フォーはちょっと寝ぼけた味だったけどパクチー入れたら美味しくなった。
ランチセット1280円、お値段も手頃で人気あるのわかりました。





正倉院展チケットで仏像展も見学できて、こちらは外人さん多かった。
なかなか見ごたえありました。

見終えて外でたら台風22号本降りの雨。
目の前向かいに氷室神社。
今まで存在は知ってたけどお参りしたことなかった。
このご縁で初参拝してきました。





流石に氷室だけあって、氷であらわれるおみくじ。



春を告げる有名な枝垂れ桜です。



春の画像ネットで拾ってきました。

平城遷都にともない春日野に氷池や氷室をつくり、稲作に重要な夏の天候を呪う祭紀を行ったのが始まりとされています。

稲作といえば、伊勢神宮の神嘗祭、今年はずっと雨だったんですよね。



神嘗祭は、その年に収穫された新穀を最初に天照大御神にささげて、御恵みに感謝する最も重要なお祭りです。

詳しくは→神宮 神嘗祭 




雨が多すぎた10月の記録






今日の満月はとても美しい

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雨続きだった10月とは打って変わり、いいお天気が続いて気持ちいい。

今宵満月はすっきりくっきり、雲の流れも早い。
毅然としてて、リセットされたような感じがします。
なんか意味ありげで、ググってみたら
牡牛座満月という星まわりらしいです。

新しい世界の始まりを実感する、と書かれたサイトもありました。

ぜひ今晩の満月眺めてみてください。

空海が唐から持ち帰ったカリン

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大念仏寺で法要終えて、お食事はあのナニワイバラの和庵へ。

花梨の大きな黄色い実がどっさりたわわに実ってた。
下にもいっぱい落ちてた。

花梨って空海が遣唐使の帰りに持ち帰ったと聞いたような。

確認のため調べてました。



「満濃池関係資料集」によれば,空海が手植えしたカリンは,もともとインドのアンラ宮殿に繁茂していたものを唐に移植し,空海が帰朝のときに持ち帰って,京都神泉宛に植樹したものだったという。つまり,まんのう町に持参される前に京都に持ち込まれていたのである。

詳しくは→ こちら


そのサイトの違うページに面白いこと書いてました。

さらに,藤原定慧が唐からの帰国(678年)の際に持ち帰ったといわれる談山神社の「菴羅樹(安蘭樹)」が当初よりカリンであったとするならば,その渡来はさらに遡って飛鳥時代ということになるのだが・・・?

あちこちクレーン車だらけで

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この一角だけでクレーン車何台稼動中であることか。
ある時突然倒れたり荷物落下もあり得る昨今、気をつけて通ってます。




これは5月に撮影して保存してた画像です。
倒れないものと信じてすぐ脇を通過しました。


北朝鮮でもクレーン車はフル稼働してまして、日本製か?とニュースなってました。






亜鉛 塗薬と味音痴

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亜鉛 (zn)
と蓋に明記されたクリーム、皮膚科で処方されました。

10/24から2週間以上すぎてやっとわかったことあります。

亜鉛といえば不足すると味音痴になると聞いてました。
どの食品に亜鉛含有量が多いかも知らず、ただ単に情報としてそうなんだと知ってただけ。

皮膚科で亜鉛という塗り薬が処方され劇薬とまでは思わずとも、なんだかなぁ〜
極力手に触れないように滅菌ガーゼに塗りつけて患部に貼りすぐ手を洗うという日々が続いてた。

昨日何の気なしに 亜鉛 塗り薬 検索したら超いい薬だった。
副作用もあんまりないみたい。

なんだか拍子抜け ٩(^‿^)۶

今朝からその亜鉛クリームへの対処が激変。


おばちゃんの思い込みのエピソード
また一つ増えました ^ ^

四天王寺の聖霊院(太子堂)虎の門と猫の門

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今日は大阪質屋組合のウォーキングで、四天王寺から新世界界隈を歩いてきました。

ボランティアガイドさんの案内付きだったので、初めて知った場所がありました。

どこから記事書こうかと画像見てたら、
またまた光の帯が目に留まりました。



四天王寺中央伽藍には西重門から入りますが、ずーっと後ろに屋根の上の水煙のような飾りが見えます。
それは太子殿に繋がる夢殿の屋根でした。



中央伽藍の東側にある聖霊院


西南角の虎の門には虎の彫りと指摘されて撮影したのが最初の画像です。


太子殿に猫の彫りあります。


聖徳太子二歳の木像が奥に祀られてるのが見えます。

この太子殿右手、東側に行くと、塀で囲われた部分、毎月22日だけ中に自由に入れるそうです。



樹々の奥に赤い鳥居が見えます。
物部守屋の祠(画像ネットより拝借)


守屋が祀られるに至った経緯→こちらとか、わかりやすい


聖霊院を出て、こちらが猫の門です、と聞いてまた撮影。
昔は左甚五郎作の猫で夜な夜な抜け出して難波界隈ウロウロするので網を被せてあったらしい。
今の猫は消失した後に彫られたもの。



よくよく見たらまたもやうっすら光の帯写ってました。

この年になって初めて知った一角だったので、光とともに記憶に残るでしょう。

番匠堂の南無阿弥陀の幟

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四天王寺の西の鳥居入って中央伽藍を撮影。
わかりにくいかもしれませんが、五重塔側に白い幟が見えます。

なんて書いてるのかな〜



東側に回ると、番匠堂がありました。




南無阿弥陀佛の幟は番匠器あれこれだった。

番匠とは、大工さんのことで、聖徳太子が大工の始祖として祀られています。
毎年11月22日午前10時より「番匠堂曲尺太子 奉賛法要」が厳修されます。





西暦578年、聖徳太子の命を受けて3人の工匠が百済より招かれ、日本最初の官寺となる四天王寺の建立を命じられた。
3名のうちのひとりが世界最古の会社・金剛組創業者である金剛重光。
四天王寺完成後、他の2名が大和と山城にそれぞれ配置されたのに対し、金剛重光は「これからも四天王寺をお守りせよ」と命じられそのまま四天王寺に残り、以降、金剛家の当主は代々、四天王寺を護る大工の称号「正大工職」という役目を与えられている。

こうして、大工・建築技術の向上、工事の無事安全を願う建築に携わる人たちの間で聖徳太子がお祀りされるようになりました。


1436年続いた秘訣は“多神教”と“普遍性”

金剛組取締役社長 刀根健一氏によれば
「国内で1000年以上続く長寿企業の共通点は大きく2つあるという。

ひとつは、神社や寺の奉納に携わる仕事であること。
聖徳太子が沐浴されていたと言い伝えられている六角堂北面の池に花を供えていたことが始まりの池坊華道会、
京佛具の本流を受け継いで千年余りの年月を刻む田中伊雅佛具店、
今宮神社脇の休み処である一文字和助など、
「神仏に仕える」という精神が先にあるため、「儲けすぎない」「手を抜かない」という心構えが根強く残っている。
また、日本は多神教国であったため、共存共栄により信仰心が高まり、穏やかな国民性・民度の高さにつながったという。

もうひとつは、昔から変わらないことを、ずっとやり続ける普遍性だ。

1000年企業の稼業である、華道、仏壇、和菓子、温泉などは、時が経ても変わらない、昔ながらの手法を守り続けている。
金剛組が行う社寺建築の様式も、和洋・大仏様・禅宗様・折衷様の4パターンで、その時々の時代背景により変化してきているが、軒の反りや曲線、彫刻などの伝統美は変わっていない。
「イノベーションを行わないことには、企業は生き残れない」とさかんに言われる一方で、世界でも類を見ない1000年企業の多くが、確かな手法を伝統的に守り続けていることを思うと、なんとも感慨深いものだ。」

オキザリス・ボーウィって

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空き家の軒下でバカでかい葉っぱが目に留まった。
コンクリートの隙間からスゴイ生命力です。



名前はオキザリス・ボーウィ
学名 Oxalis bowiei 
和名 はなかたばみ


店のご近所さんとこでも見たから咲いてる時に撮影しようっと



昼前に見に行くと
陽は当たってるのに咲いてない。

夕方もう一度見に行った。


さらに萎んでた。
今日は小春日和なのに、なんで咲いてないのかな。
しかし、他の植木を覆い尽くさんばかり。
やっぱりたくましい。


花図鑑見たら、10〜翌年2月頃まで咲く。
耐寒性強く、暖地では露地で越冬できる。




新世界とじゃんじゃん横丁を歩く

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通天閣がふたつあるように見えるとこ
と案内されたのはスパワールドの階段左手の大理石壁。
この壁面が鏡のようになって通天閣がダブルに。



この通天閣南通を写しました。



四天王寺さんお参りしてから、ボランティアガイドさんに案内されたのは新世界とじゃんじゃん横丁でした。

南海高野線沿線で生まれ育ったので、通天閣あたりは何度か来てはいます。
しかしあまりガラの良いとこではないので深く知らなかった。

えべっさんの時に今宮戎にお参りして、新世界のずぼらやで てっちり食べてすぐ帰ってた。
上の地図の紫の線。

今回は青い線を案内いただきました。

天王寺動物園から新世界に入っていきます。
最初に向かったのは、地図で青い星型に記したところ





1953年に開店した喫茶店「再会」
今は月に一度ぐらいコンサートなどで開けられるだけらしい。
特別に中に入らせてもらえた。







オープン当時に片岡千恵蔵さんから寄贈された時計と鏡。
その寄贈の文字は鏡左下にみられます。


この建築有形文化財建物すぐ近くには


建物内と外世界とのギャップがスゴイでしょ。




新世界稲荷にも初参拝。





石車を回して占うおみくじは無料だったので、お賽銭に100円張り込んだ^ ^





つづく

新世界の通天閣と、じゃんじゃん横丁の歴史

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大阪新世界のシンボル通天閣は創立100年を記念に南海地震等に備え世界初の免震展望タワーとして生まれ変わった。

地上12mのエントランス天井に、直径17mの八角形、花園で遊ぶ3羽のクジャクが百年を超えて蘇りました。
原画「花園に遊ぶクジャク図」沖谷晃司氏
詳しくは→クラブコスメチックス


明治45年(1912)初代通天閣のエントランス大天井に、クラブコスメチックスの前身である「中山太陽堂」は、クジャクや季節の花々を配した大変華やかな天井画の広告を掲出していた。
昭和18年(1943)通天閣のそばの映画館が炎上し、その影響で通天閣の鉄骨がねじ曲がり、ついには戦時下の鉄材供給の名目で解体されてしまった。

2代目通天閣は昭和31年(1956)に誕生、改修工事でその天井画が今回復刻された。


免震レトロフィットタワー 通天閣改修工事




通天閣の入場口のすぐわきに、王将碑
何度も通天閣の下通ってけど、今回指摘を受けて初めて気づいた。



♪吹けば飛ぶよな 将棋の駒に~
 
この王将の3番の歌詞

♪明日は東京に 出て行くからは
 何が何でも勝たねばならぬ
 空に灯がつく 通天閣に
 おれの闘志が また燃える


将棋棋士の阪田三吉さんがモデルとなった懐メロです。
坂田と表記されることもあり一定しないようです。

堺県大鳥郡舳松村字塩穴出身
1870年7月1日(明治3年6月3日) - 1946年(昭和21年)7月23日)



スパワールドの階段上から撮影した画像は、先の記事で紹介しました。
その階段のすぐ下に、大阪国技館跡の碑


第5回内国博覧会跡地が整備され、明治45年(1912)に通天閣が建ち新世界誕生。
儒学者藤沢南岳氏の命名で「天に通じる高い建物」という意味。

通天閣と同時に、南側に遊園地「ルナパーク」が開園するも次第に来場者減少。
大正12年(1923)閉園、その跡地に映画館や演芸場ができてお笑いの大阪文化の中心地となっていく。


大正8年(1919)には大阪国技館が建設され、大正14年(1925)まで大阪相撲の興行があった。
その後建物は映画館となり、空襲で焼失。




スパワールドから南側の線路を挟んで、緑★で記した地が「てんのじ村」
朝ドラ「わろてんか」のゆかりの地、大阪のお笑いの原点です。


大阪の寄席芸人が住んでいた町・てんのじ村

このサイトより一部引用せてもらいます。

「てんのじ村」は天王寺駅から通天閣・動物園前方向に下がって行く、阪神高速の入り口近くにあります。

現在は西成区山王(旧天王寺村)という地名ですが、一帯の長屋は、道頓堀、千日前、新世界といった演芸街に近かったため、芸人が集まる町で、角帯姿や三味線を抱えた二人連れが行き交い、三味の音に踊る影絵が障子に映り、稽古が夜遅くまで続いていたそうです。


こうした三味線をじゃんじゃん鳴らすからじゃんじゃん横丁って名前ついたと聞きました。




歴史をさかのぼると、聖徳太子が四天王寺を建てる時に職人たちを慰めるために芸人たちを集めたという記録もあるようですが、どうやら芸人の地位が低かった明治時代に環状線の外に彼等を追いやったのがもっとも確かな町の始まりだと考えられています。

近くに飛田遊廓もあったこともあり、昭和の初め頃から終戦の年あたりまで、最盛期には300人から400人くらいの芸人たちが住み、呼び掛けるとすぐに10組程度の一座が組めたほどでした。
その後、社会情勢の大きな変化とともに衰退の一途をたどり、今では20代の芸人は海老一すずめだけで、あとはみな70才以上ばかりとなっていますが、戦災でも焼けなかったため、往時の面影を残す長屋は今でも健在です。
かつてはミヤコ蝶々、人生幸朗、海原お浜・小浜たちもこの町の住人で、ミヤコ蝶々が通りで寝そべってヒロポンを打っていたというのは有名な話しです。



つづく

天王寺公園 てんしば で思ったことアレコレ

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天王寺動物園に入場せずに高架道で、新世界から天王寺公園に行けます。
正面に見える建物が大阪市立美術館、左の高層建築があべのハルカス。




若いころから天王寺公園には何度も足を運んでますが、こんな銅像立ってるのに全く気付かなかった。
この銅像の前で堂々と露天商が並んでるんだから、皆さんあまり大事に思ってないかも。
ボランティアガイドさんの説明がなければ立ち止まることもなかった。





銅像のお名前は、像の下ではなく、背面の壁にそっと隠れるようにありました。

池上市長顕彰碑

 池上四郞君は安政四年四月十八日会津若松に生れ大志を抱いて才を警史に起し累進して大阪府警察部長の職にあること十四年 大正二年十月与望に応えて第六代大阪市長に就任し寛厚沈着にして清廉果敢大いに市政刷新向上の実を挙げ本市政史上初めて市長三選の栄を得られた。

 ことにこの間市財界の宿望であった大阪電燈株式会社の買収を初め財政の整理 都市計画事業の確立 築港の完成 水道の拡張 市庁舎の新築 学区の負担均整 実業中校の増設 社会教育の振興 社会事業の創設 諸病院の拡張など近代都市大阪建設一の緒を開かれた大きな業績は今日その輝かしい成果を見その恩恵を思うにつけ深く感銘にたえないところである。
 
 昭和三年二月には選ばれて朝鮮総督府政務総監の要職につかれまた大いに箔績を挙げられつつあったが翌四年四月四日東京出張中病を得にわかに長逝された
 
 昭和十年四月その遺徳遺業を敬慕する知友相謀り天王寺公園中央部の一角に銅像を建立されたが 同十七年十二月金属回収の戦時国策に従って供出されたので 本年市制施行七十周年に際し彫塑原型によって復元しこの地に再建して長くその功労を後世に伝えるものである

 昭和三十四年六月     大阪市長 中居光次



知らんかった~

この池上市長の時代に大大大阪の礎がつくられたのですね。
大正2年に大阪市長となられ、その時の助役が関一さんで、池上市長の後を継いで次の有名な市長さんになられてた。
関一さんのことは知ってても池上さんのお名前は?
たぶん、たいていの大阪人はそうかもしれません。
大阪市の税金でお安く大学卒業させていただいたのに、知らなくて申し訳なかった気持ちでいっぱいです。

池上四郎さんが会津出身だったことや、秋篠宮紀子妃殿下はは曾孫に当たることも、いろいろ忖度するのでしょうか。

Wikiページによれば、
1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて、肝付兼行の後任として大阪市長に就任した。財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図った。

御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は、池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現し、大大阪時代の全盛期を迎えることとなった。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電灯株式会社を買収し、電気供給事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。


住友家が大阪市に寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園。
これらもこの時代のはなしだったのですね。

詳しくは→こちらのブログで



2013年春に質屋ウォークで天王寺界隈を歩き記録残しています。
立派なお弁当が楽しみな質屋ハイク
天王寺七坂
天神坂の安居天神の菅原道真と少彦名命

実は、あのときもう一つ記事アップしてまして、何年にもわたりこのブログの人気記事の一つでした。
タイトルは
「朝鮮総連系在日コリア寺院 統国寺のベルリンの壁」
ところが二年ほど前だったかに、そちらの関係者の方から直接記事を削除依頼が届き、いろいろ思案を重ね受諾しました。

どんな内容だったかというと、


やっぱり公開は躊躇しますね~
戦後の闇の歴史が…
よくよく考えて、そのうちこっそり追記するかも。






天王寺公園は、橋下市長の時代に行っとき無料から有料になってました。
それがまた「てんしば」となり近鉄が運営するようになってシステム変わってた。

2013年には、せっかく住友さんが寄贈された大阪市立美術館や慶沢園の値打もわからんとと、売りに出すなんてアホやとボランティアガイドさんが憤慨されてたもの。

ちなみに、『慶沢園』という名は、伏見宮貞愛親王(ふしみのみや さだなるしんのう)から賜ったもの。
「照代え恩恵、祖先の余沢」の意ではじめは『恵沢』の名が用いられ、この庭園が完成した大正7(1918)年の5月に『慶沢』の字に改められたそうです。




じゃんじゃん横丁では、あちこちで串かつやの匂いが充満してました。
しかし質屋ウォークは大所帯で30名を超える人数だったので小さなお店には入れません。
それで天王寺駅MIOの串屋物語で串カツの食べ放題ビュッフェ。
この年になるとわずか10本程度、それほど食べれるものでもありません。
各自のテーブル自分で揚げる油の匂いで目がチカチカして早々に退散しました。




高級旅館車寄せに駐車できるのは

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スーパー店頭で見かけてつい撮影してしまった。
大きいことはいいとは限らないけど。

先週同業者組合の秋の総会が有馬で開催された。
お昼から時間余裕あった方々は大阪から高速バスで行かれました。

私ともう一人が仕事の都合で15:30出発。
同行者にダイハツのハスラーでピックアップしてもらった。



宿は有馬温泉駅がすぐ下に見えるロケーション。



17時頃到着したら、正面玄関前に10台くらい駐車スペースあり、真っ正面が空いてた。
でもさすがにそこはマズイやろ、端から2台目のスペースに駐車しようとしたら、係の人が出てきてストップ!

地下の駐車場へどうぞ、と迂回の地図を渡される。
画像は翌朝撮影したもので、着いた時は日が暮れかけてた。



有馬温泉の坂道ぐるっと迂回してきて駐車、階段上がれば正面玄関へすぐです。

ベンツとかの外車、日本車ならレクサスとか、軽は停めるとこではありません、言わずとしれたこと…(^^)




ナフキンの膝掛けには立派な漢詩が金字印刷されてます。
もちろんもらって帰りました。

普段よりksなりお高い有馬の宿でした。


霜月のご馳走★海老頭が蛙

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見事な見立てです(╹◡╹)♡








肉は三切れしかなかった(´-`)
シニア向けの量は、うちらの顔見て作られたかな。


翌朝のむかごのお粥、おかわりしました。


琵琶湖一周紅葉列車の旅、まずは坂本

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坂本 日吉大社

大阪駅7:09 団体貸切列車で出発。


比叡山坂本駅着 7:57
10:55まで自由時間だったので坂本を散策。



今年は紅葉はすでに散り始めてた。
もともとあんまりいい色にならなかったような。
先週の有馬もそうでした。



色づくより枯れてる葉も多い。

日吉東照宮から対岸の三上山が美しい。





慈眼堂の門







珈琲の代わりに鶴喜蕎麦でちょっと休憩。

11:17 に坂本を発車して、車中でお弁当。
次に向かった町は

つづく

近江塩津でスイッチバック

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昭和レトロな貸切列車で、座席にはテーブルも前に編みポケットもなくて超不便。
お茶を置くのも困った。

比叡坂本駅11:17発。
湖岸沿いをお弁当食べながら話もはずむ。
高校からの3人組で申込んだ日帰り旅です。
11月初めの高校同期の学年同窓会はそれぞれ事情により参加できなくて、この旅で埋め合わせ。

お弁当もお茶も置くとこなくて食べるのに集中、いつのまにか湖岸から山の中に入って長く停車してるのに気づく。
隣のホームからこの列車を撮影する鉄ちゃんの姿も目にとまる。

ここでスイッチバックしてたんだ。
急いで写真撮ったけど、すでに駅名ちゃんと写るアングル逃してしまった。





座席後ろ向きに走り出して、乗車客全員同時に立ち上がりシートの向きを変えた。




この周遊列車は臨時の貸切です。
ふだんは、琵琶湖の西岸の湖西線と、東岸の東海道線、北陸線はぐるっと周遊してません。
1日に何台かは、長浜-今津間を走る列車が、この近江塩津でスイッチバックするようです。





黄櫨染御袍を身に纏われる太子像

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天皇の御袍
天皇が着用する袍(束帯の上着)の色や文様は、他の官位の袍と異なって、律令できちんとした定めはありませんでした。しかし皇太子の色「黄丹」より上位に「白」と記載されているところから、白が天皇の袍の色だったと想像されています。
平安時代初期の弘仁11(820)年、今に伝わる黄櫨染(こうろぜん)という黄土色のような色が天皇の色と定められました。ただし天然素材で染めているため、各時代によって黄色が強かったり茶色に近かったり、かなり幅があるようです。 
文様も特に定めが無かったのですが、平安中期頃から帝王を表す鳳凰や竹の文様が描かれはじめましたが、この頃は袍全体に唐草模様のように広がる地紋であったようです。鎌倉時代頃から桐や麒麟も加わり、ひとつの四角い文様「筥形文(はこがたもん)」となって、今日のような文様となりました。 
青色(うぐいす色のような色)も黄櫨染と並んで天皇の色とされましたが、どちらかと言えば公式が黄櫨染、日常が青色であったようです。ところが室町時代末期に黄櫨染の製法が途絶え、一時天皇の御袍色は青色だけになりましたが、江戸時代に黄櫨染が復興し、明治以降は青色は御着用ではありませ ん。青色は天皇の秘書官である蔵人(くろうど)のベテランに御下賜になることがあり、また平安時代は親王や公卿も着用していたようです。この場合、天皇の「青色」と違う「麹塵色(きくじんいろ)」と称し、文様も「尾長鳥牡丹唐草」(大柄地紋のページで紹介)を用いたようです。




この建物は、京都の広隆寺にある太子堂です。
お堂は上から見ると下が正面の凸形になっていて、後方の飛び出した部分に宮殿が設えられており、聖徳太子像が安置されているそうです。
御本尊の太子像は、33歳のほぼ等身大とされる立像で毎年11/22「聖徳太子御火焚祭」の日に開扉され拝むことができる。

11/22に聖徳太子の日だと、りひとさんがコメント下さって、確かに四天王寺の番匠堂で忌日法要執り行われるけどと、検索してたら見つけました。
コメント返しでは長くなるので、一つの記事にし記録残します。

広隆寺の太子像は黄櫨染御袍を身に纏われてる
何箇所かでヒットしますが、こちらのブログでは
「歴代天皇が即位礼などで着した黄櫨染(こうろぜん)の袍(ほう=上衣)を賜るのだといいます。ということは、いま着ておられるのは今上天皇のものだということになります」

ということは次の改元、平成の次が話題になってますが、こちらの太子像も着替えられるということですね。

来週の12/1の会議でいつか決まるのでしょうが、もし4月から始まった年度がわずか1ヶ月先の5/1で改元となったら、超めんどう。
改元はどうでも良いという認識かも。
確かに平成になってから今平成の何年かよく分からなくて、西暦一本にすればいいのにと思ってる国民も多いことでしょう。
高齢でしんどいからと退位されるはずが上天皇上皇后で予算も人ももっといる、なんてわけわからん状況で、皇室への関心や畏れ敬う気持ちが急激に冷めましたから。

ご参考までに
5月1日改元案の怪


ところで、広隆寺の太子像は、嵯峨天皇時代に黄櫨染御袍を贈られることが決まったようでそれ以来ずっと?
この不思議は何故そう決まったのかとか、いわれとかは、わかりませんでした。
秦氏との関係大ありなよう思えますね。


ちなみにこのブログのカテゴリー「古代史のミステリー」でこの記事は157番目です。
2008年10/16 に秦くんについて書きました。
私の古代史のミステリー原点でもあります。


もっとちゃんと、探求深めたい方は、
日本に秘められた謎を解く とかで


彦根で近江ちゃんぽんに大満足

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琵琶湖一周紅葉列車は、比叡山坂本を11:17に出て、湖北の近江塩津でスイッチバック、前後車両が逆となる。
琵琶湖東岸の彦根13:08着。
再集合が15:30

今回の貸切列車は6両編成で300名参加と聞いていました。
彦根城の入場券は、150名以上のオプション参加希望者がいたので800円でした。



彦根といえばひこにゃん。
写真撮ったら早々に天守閣へ。



中では狭い階段を登るため順番待ち行列ができてて、、天守閣ぐるっと巡ってすぐに降りる。
まぁこれで彦根城行ったことあるよ、
という城めぐりダーツの矢を刺したということになるのでしょう。







上からの見晴らしはもっとすごいのを想像してたので、(^_^*)






彦根駅から彦根城まで15分ほど歩く途中にあるのを、往路にしっかり確認。

限りある自由時間、玄宮園よりはこっちやねと、花より団子です。



近江ちゃんぽん発祥の地でソールフードというだけあって、めっちゃ美味しかった。

終わりよければ全てよし(^O^)

たこカレーと酒の粕

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やっぱり蛸って旨味でますね〜
大根や蓮根の根菜類とも相性良かった。
自分で作ったわけではなくて、
いつもの喜楽の新メニュー。
この後に大好きな粕汁も頼んだのでお腹ぱんぱん。

おまちかねの新粕入ったよ
と連絡いただいて貰いに行きました。



たぶん越乃景虎のだと思います。
めっちゃ美味しい酒粕なんです。
いつもありがとうございます(^人^)

アガペ大鶴美術館で黄金律を知る

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先だって記事にした有馬からの帰り甲山を経由しました。


アガペ大鶴美術館

まだできて数年しか経ってない関西の新名所です。

訪問したのは11/17(金)で、その翌日の土日なら関西文化の日で無料だった。

入場券買うとき残念やわぁと話してたら、



千円もする来年のカレンダーくださった。



外壁は受付におられた館長さんのデザインだそうです。
中はびっくりするぐらいお宝詰まってました(@_@)

館内の撮影も許可頂いたんだけれど、公開していいのか不明なので、まずは館外画像でご紹介します。




建物左手にあった石碑
マタイによる福音書
「人にしてもらいたいと思うことは何でも
あなたがたも人にしなさい」


これが、Golden Ruleゴールデンルール 黄金律と呼ばれているなんて、この時まで知らんかった。

黄金比率とごちゃ混ぜになってた私 (^^;;


黄金律と黄金率
確かに漢字ちゃうやん^^



アガペ大鶴美術館


〒662-0001
兵庫県西宮市甲山町53番地4号
TEL : 0798-73-5111

世界一のクリスマスツリー@神戸

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「めざせ!世界一のツリーPROJECT」
イベント期間/2017年12月2日(土)~207年12月26日(火)
オープニングセレモニー/2017年12月2日(土)時間未定
会場/神戸メリケンパーク(兵庫県神戸市中央区波止場町2)
ショップ営業時間/11:00~22:00
ツリー点灯時間/17:30~22:00予定(※時間中に随時点灯)
料金/観覧無料


11/17朝、有馬の宿でTV視聴してて画像残してます。
昨日書いたアガペ美術館行く前のことで、心に引っかかるものがありましたから。





昨夜の報道によれば





富山の伏木といえば、当店質屋を戦後に始めた初代しげるさんの出生地なもんで。
訂正(しげるさんは新湊で、奥さんが伏木だった)


★追記:12/2 正午
コメント頂戴して返信する前に、知ってることを先に記しておきます。
本日オープニングセレモニーが行われ点灯される予定ですが、すでにネットではいろいろ話題になっていました。
プロジェクト中止を求める署名運動も及ばなかったようです。

神戸市の樹齢150年のあすなろを使った「世界一のクリスマスツリーProject」が醜悪すぎると話題に
投稿日時 2017年11月20日21:01
こちら で



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